今度はそっち

「……ねえ、今日のチラシってこれだけー?」
「うん、たしかそこにあるだけのはずだよ!?」

とある休日の朝。
少し寝坊をしてしまったため、テーブルでひとり遅い朝食をとっていたえりかの問いに、
ブラシでまとめた髪の毛をヘアゴムで束ねていた早貴が答えた。
えりかが納得いかないようにテーブルの上の折込みチラシの束をめくっていると、

「ねえ、えりかちゃんめずらしいよね!?普段はチラシなんてあんまり見ないのに」

やはり髪にブラシを入れる手を休めないまま、栞菜が言った。

「……うん、だってさ」

えりかは顔を上げ、あらためて周りを見渡してみたが、えりかの側で髪を結んでいた早貴と栞菜も、
テーブルが置かれたキッチンと繋がったリビングで、今日の洋服に悩んでいる舞美と愛理も、
みんな思い思いのお出かけの準備で忙しそうだ。
今日のチラシのことなど誰も気にかけていないその雰囲気に、えりかは軽く肩を落とした。

その時――、

「ねえ、みんなまだー!?ちっさーなんてもう靴まで履いて待ってるんだよー!」

すでに支度を終えたらしいマイが、玄関に繋がる廊下の戸口からひょっこり顔を出して叫んだ。

「早いよー!えりかちゃんなんてまだ朝ゴハン食べてるんだからねー!!」

栞菜がすぐに叫び返した。
だが、えりかの頭にはまず(玄関先を走り回っている千聖)の絵が浮かび、
(もしあの子に尻尾が生えていたら、きっと大喜びでブンブン振っているに違いない)と
その姿をイメージして可笑しくなってしまった。
そして、少し顔がほころんだえりかに、

「――ねえ、えりかちゃん。チラシなんか入ってなくても、何が安いかなんて行ってみれば
 わかるから大丈夫だよ!」

早貴が笑顔で言った。

「……うん。ちょっと、待ってよおー!」

えりかは残っていたトーストを口に押し込み、グラスのジュースでそれを無理やり流しこむと
慌てて立ち上がった。


身支度を終えたえりか達は、今日のために用意していた七人分の予算を持って家を出た。
電車に乗り、目的地の駅で降りると、小ぶりだけれども自慢の地元のデパートやファッションビルが
並んでいる。そこから、「SALE」や「OFF」の文字が躍る賑やかなアーケードを抜ける。

さらに少しの距離を歩いて、周りの風景が大きく開けたところに、その場所が見えた。
今日のお目当てである大型ショッピングモールだ。
数千台の車が停められる大きな駐車場に、広い店内にはファッションや雑貨などの様々な
ショップ、飲食店街に食品売り場、シネコン式の映画館にアミューズメントパークまである。

「うわあ、すごい人だねー!」

入り口をくぐって店内を見渡し、溢れる人波に早貴が言った。
今日セールをしているのは、駅前のアーケードもこのお店も同じだ。

「えへへへへ、これもらってきちゃった」
「ちょっと千聖、それ小さい子にしか配ってないんじゃないの!?」
「千聖は背が小さいからいいんじゃない?それにほら、えりかちゃんの好きな黄色だよ!」

入り口脇でセール記念の風船をもらった千聖が、それを嬉しそうにえりかに見せた。

「ねえ、早く行かないと可愛いお洋服無くなっちゃう!」

マイが隣にいた舞美の腕を掴んで引っ張るが、前から「新しいスニーカーが欲しい」と
言い続けていた舞美の視線は、「ねえ、スポーツショップもセールやってるよ!」と、
違う方向に釘付けだ。

「ねえねえねえ、お昼ごはんは何食べよう!?」
「早いよ!」

正面入り口から横に広がるレストラン街を目にしたとたん、お腹が空いたらしい
(食いしん坊)愛理に、栞菜が今日二度目の台詞を言った。

やっぱりみんな興奮しているみたいで、何だか可笑しい。
でも、仕方が無い。お買い物大好きな女の子が、「あの店もこの店もみんな安い」なんて、
それで(テンションが上がらない訳が無いじゃないか)とえりかは思う。

それに、このショッピングモールは昔から「家族みんなでお買い物に来るときはここ」と決めている、
いろんな思い出もある、みんなが大好きな場所だ。

「じゃあ午前中はまた自由行動にして、自分の好きなショップを見て周ろうよ。
 で、お昼前には集合して、みんなでお昼を食べよう!」
「うん!」

舞美の提案にみんなが頷いた。

「じゃああたし、えりかちゃん取った!」

早貴がそう言うと、えりかの右腕にしがみついてきた。

「じゃあウチは舞美ちゃん!!」

とマイが舞美の腕を引っ張り、

「千聖はなっきぃとえりかちゃんといっしょに行くよ」

千聖がえりかの側でにこりと笑った。
お買い物のときは、まずいくつかの小さいグループに分かれて行動をする。
興味があるものも服の趣味もバラバラなので、その方が効率がいいのをみんな知っているからだ。

「愛理はウチといっしょに見ようよ」

栞菜がレストランのショーウィンドウから目を離さない愛理と腕を組んだ。

「じゃあ舞美ちゃん、早くお洋服!」
「待ってマイ、あたしスニーカーが……」
「ウチの洋服が先!早くいかないと可愛いお洋服取られちゃう!!」
「きゃっ!……じゃあみんな、12時にいつものトコで。あんまり無駄使いしないようにね!」

マイに腕を引っ張られた舞美が、手を振りながらその場を離れた。

「……ねえクレープも美味しそうだよ!」

今度はクレープ屋さんに視線を奪われたらしい愛理に、

「愛理ッ!愛理はまず、大事なお洋服を選ばなきゃいけないでしょ!?」

栞菜が愛理の服の袖を引っ張りながら言った。

「いいよあたし、そんなお洋服なんて何だって。別に普段着でもいいもん……」
「そんな訳にはいかないって。可愛い格好してた方が絶対有利なんだから!」
「……そう、なのかな?」

栞菜の言葉に、愛理の首が小さく傾いだ。

「そうに決まってるじゃん、 だから愛理はウチと一緒にお洋服を見にいくよ!
 ……じゃあ巻いて巻いて!」

栞菜がスピードスケートの選手がスタートするような前傾姿勢をとり、千聖が「よっしゃ!」と
その背中に付いているらしい「見えないぜんまいハンドル」を何重にも巻く。、そして

「――ゴー!!」
「……あ、待ってよお!」

大きく叫んだ栞菜が、そのまま愛理の手首を掴み、『バーゲン会場突入』用の『戦闘モード』と化して
勢いよく掛け出していった。

「お洋服かあ……、いよいよだね愛理」

その後ろ姿を見送り、感心したように早貴が言うと、

「……うん」

その複雑な気持ちを隠せないまま、えりかが頷いた。



「ねええりかちゃん。これとこれだったら、どっちがいいかなあ?」

大勢の女の子で賑わう人気のショップの一つで、「絶対買う!」と決めたらしい可愛いシャツを
小脇にはさみ、さらに両手に服を抱えた早貴が、それを交互にあてて悩んでみせた。

「うーん、どっちも似合うけど、こっちの方がコーディネートしやすいかもしれないよ」
「そっかあ、ありがとうえりかちゃん!」

いつも姉妹のショッピングの時には欠かせない、おしゃれが大好きでセンスもいい
えりかの的確なアドバイスを、今日は跳びついて一番に得る事が出来た早貴が、
えりかに感謝の言葉を述べた。

「じゃあ、こっち買ってくるね」
「なっきぃ、ところでちっさーは?」

千聖がいないのに気付いて、えりかが訊ねると、早貴がレジに向かいながら「あそこ」と、
人垣の向こうにピョコと浮いて見える黄色い風船を指した。えりかが歩いていくと、
ショップの敷地から一歩出た通路で、所在なさげに座りこんでいる千聖の姿が見えた。

「……ちょっとお、千聖はお洋服見ないの?」
「だってさあ、あんな女の子だらけのところ、恥ずかしくて入っていけないよ」
「何それ!?」

いかにも“千聖らしい理由”に、えりかが笑った。

「それに、そんなに荷物が増えたら帰りが大変じゃん!?だから千聖は今日は
 可愛いペンとノートが買えればいいの」

……そして、いかにも“千聖らしい遠慮”を理解するえりかは、ちょっと切なくなった。
そして昔のことを、ふと思い出した。

(……パパが生きてた頃は、何でも好きなお洋服買ってもらえたんだけどな)

特に自分は、“おねだりが得意 ”+“長女の特権 ”で、“ お下がり知らず ”のお姫さまだった。
「じゃあ、今度はそっちー!!」と、パパの手を引っ張ってお洋服屋さんを駆け回っていた。

パパは亡くなったけれど、音楽家だったパパの音楽を愛してくれてる人は、今でも日本中に
いっぱいいる。パパの遺産と、その音楽の印税のおかげで、あたしたちは日々を暮らしている。

やりくりはそれほど苦しくはないけど、それでも一番小さいマイが大きくなるまでのことを
考えると、そんなに贅沢や散財はできないな、という思いがみんなにはある。

えりかも舞美も「心配はしないで」「遠慮しなくていいんだから」と常に言う。
それでも、小さい子たちに気を使わせてしまうことを、えりかはたまに心苦しく思う。

「――それでさあ、えりかちゃんはどんなお洋服買うの?」

少し感傷に浸っていたえりかに千聖が訊いた。

「ちっさー、えりかちゃんはこんな子供っぽいお店じゃ買わないよ。
 ねえ、えりかちゃん?じゃ他のショップ見にいこ」

買ったばかりのショップの袋を、嬉しそうに抱えた早貴が来て言った。

「ううん。……あたしも今日はお洋服買わなくていいや」
「えー、どうして!?」
「そうだよ、えりかちゃん昨日から楽しみにしてたのに!?」

早貴と千聖が驚いて言った。
そりゃそうだろう。いつもみんなでショッピングの時には一番テンションが高い
“お買い物大好き人間”がそう言うのだから。
……でも、仕方が無い。今日は何だか、そんな気分じゃなくなった。

「……えりかちゃん、やっぱお買い物はマルキューとかの方がよかった?」

早貴が、えりかの気持ちを探るように訊いた。

「ううん、いくらセールでも、あそこのブランドはやっぱ高価いじゃん。
 あたしだけそんな高価い服買うわけにはいかないし」
「…………」
「いいの!今に自分で働くようになったらお洋服なんて死ぬほど買ってやるんだから。
 見てなさい!マルキューなんてビルごと買い占めてやるんだから!!」
「あはははは!」

えりかが努めて明るく言い、安心したように二人が笑った。

よかった。みんなには落ちこんだところなんて見せたくない。
それに、悔しいから、本当の“理由”なんて今は知られたくない。

「じゃあさあ、千聖の欲しいペンでも見にいこうよ」
「うん」

えりかが二人を促して、ファッションショップが連なるフロアを後にした。
(そう言えば、洋服を選んでるなら栞菜と愛理もいたはず……)
振り返り、どこかにいるはずの愛理の姿を探してみたが、その姿を見つけられなかった。


一通り好きなところを見て周ったみんなが、舞美の言った「いつもの」待ち合わせ場所である
通称『イベント広場』に集まり、そのまま「いつもの」フードコートへ向かった。

「マ〜イ、どうせあとでお茶するんだから、アイスクリームは今はダメだよ!」

お姉さんぶって注意した舞美が、

「そう言う舞美ちゃんも、どうせあとでアイス食べるんだから、お昼は大盛りは無しだよ!」

あっさり言い返されて「そんなに食べないー!」と、ごまかすように笑った。

定番のファーストフードやデザートから、和風・洋風・中華まで、出店のように並ぶお店から、
セルフ形式で好きなものを選べるフードコートは、その安さと手軽さもさることながら、常に多くの
家族連れや学生たちで賑わい、騒がしくしてても周りを気にしなくていいのが魅力だった。

「ねえ見て見て、ほらこのプリ可愛いくない!?」

和・洋・中と七人分の様々なお昼ごはんが並んだ、空いていた隣同士を繋げたテーブルの上で、
愛理と二人で撮ったばかりのプリントシールを広げて栞菜が言った。

「……なんだ、いないなーと思ってたらプリクラなんか撮ってたの!?」

パスタをフォークに絡めながらえりかが訊くと、

「うん、あとでみんなでも撮りにいこうよ!」

幸せそうにそばを一口すすった後、愛理が答えた。

「おお、いいじゃん。撮ろう撮ろう!」

と、口いっぱいにハンバーガーをほお張っていた千聖が嬉しそうに反応したが、

「ちょっと二人共、愛理がオーディションの時に着る、大事なお洋服探しに行ったんじゃ
 なかったの!?」

麺を食べている箸を止めて早貴が言った。
小さい頃から歌が好きで、『歌手になりたい』という夢をずっと抱いていた愛理。
その愛理が、夢を実現するべく、とうとう今年あるオーディションに挑戦することした。
先日、応募した書類が一次審査を通過したという知らせが届き、これからは審査会場に出向いての
本格的なオーディション審査に挑むことになっていた。

「だってさあ、ちょっと聞いてよ!愛理ったらさあ、『……これあんまり可愛くないなあ』
 とか『……このお洋服もちょっと』とか、全然決められないんだもん!ウチが選んで
 あげた服も全部『……いまいちかなあ』とか言うし」

愛理の挑戦に、愛理以上に燃えてるのが栞菜だった。

「そっかあ、愛理は優柔不断だもんね」舞美が言うと 「舞美ちゃんは人のこと言えないっ!」
マイが怒るように言った。どうやら二つのスニーカーの間を行ったり来たりしてでも決められずに
時間がきてしまい、 結局何も買えなかったらしい。

「……それで二人でプリクラなんか撮ってたの!?」

早貴が、愛理と栞菜あきれるように言った。

「うん。もう、愛理がこんな煮え切らない性格だとは思わなかったよ!」
「……だってぇ」
「だってじゃない!」

栞菜に怒られ、愛理がシュンと困った顔になった。

「そうだ!お昼ごはん食べたらみんなで愛理のお洋服見にいこうよ。
 でさあ、今度はえりかちゃんが決めてよ」
「え、ウチ……!?」
 
急な栞菜の提案に、えりかが驚いて答えた。

「大丈夫、えりかちゃんのセンスで選んだ服ならもう絶対だから!」
「でも、さあ……」

えりかが戸惑うように愛理を見た。愛理も困ったようにこっちを見ているのがわかる。
「……」えりかの開きかけた口を「いいねえ」「いこういこう」と舞美と千聖が塞いだ。

「だって、愛理の夢はみんなの夢なんだからね」

栞菜の言葉と、それに呼応して上気したみんなの態度に、えりかは発しかけた言葉を、
そのまま胸の奥に仕舞いこんだ。


えりかたちは昼食を終えると、張り切る栞菜を先頭に、今度はみんなで
女の子向けのショップが並ぶフロアへと向かった。

「ねええりかちゃん、栞菜は今日は自分のお洋服いらないから、 その分愛理のお洋服を、
 上から下まで完璧なコーディネートしてあげて」
「そんな、いいっていいって!」

愛理が、首と両の掌をブンブン横に振っていたが、愛理を思う栞菜の気持ちを考えて、
えりかもその場で力無く「……うん」と返事をするしかなかった。

(どう、しようか、な……)

悩みながら、みんなの後ろを歩いていたえりかが、みんなの待ち合わせにも利用した
「イベント広場」と呼ばれるホールの前を通りかかり、

「……あ!」

その光景に気付いて小さく声を上げた。
一階部分から三階部分までが吹き抜けになった広場の、下から見るとベランダのように
突き出した二階部分の天井に赤い風船が引っかかり、その下には小さい女の子と
お母さんらしい女性が立っていた。

「手を放しちゃうからいけないんでしょ。ほら、お母さんだって届かないんだから」
「でもお……」

風船の持ち主らしい五歳前後の小さい女の子を、お母さんが説得しているが、
あきらめられない女の子が風船を見上げて手を伸ばしている。

「……ね、アイちゃん。仕方ないから、もう行きましょ」
「でも、アイちゃんの風船があ……!」

お母さんに腕を引かれた女の子の目から涙がこぼれたその時――、

「大丈夫、お姉ちゃんが取ってあげる」

えりかが、その女の子の頭を優しくそっと撫でた。
みんなから離れて、ひとりで来てしまったけど仕方ない。
昔から、小さい子が泣いたり悲しんだりしているのを見過ごせない性格だ。

「まかせてよ、お姉ちゃんの身長は、こんなときのために大きいんだから!」

びっくりしている女の子の前で、えりかは、わざと大きく伸びをしてみせた。
潤んだ女の子の瞳がパッと輝いた気がした。よかった、とえりかは思った。
「ようし、絶対取ってあげる」と、えりかは風船から下がっている紐に手を伸ばした。

「……あ、れ!?」

女性の中では高身長のえりかだが、それでも、思い切り背伸びをしても紐には届かない。
しまった、とえりかは思った。遠くからみていると届きそうだったんだけどな……。
軽くジャンプをしてみたが、それでも指先が紐に触れるかどうかだ。
そもそも、ミュールを履いているので上手くジャンプが出来ない。

「……あの、無理しなくてもいいですから」

女の子のお母さんが、心配そうにえりかに言ってくれた。
(……やばいぞ!?)背中に軽く汗がにじんだ。女の子の方に顔が向けられない。
せっかく期待してくれているのに、きっとガッカリさせちゃう。

慌てて辺りを見渡したえりかの視界に、数脚のベンチや丸テーブルが飛び込んできた。
さっきみんなで待ち合わせた、広場の端に設置された休憩所のものだ。
えりかは「ちょっと待ってて」と言って、少し離れたそこから、白い丸テーブルと
セットになった白い椅子を一つ抱えて戻ってきた。

「これで大丈夫だから」

風船の真下の位置に椅子を置くと、履いていたミュールを脱いで素足になり、椅子の上に
立ち上がって手を伸ばした。「やった!」今度は楽に風船の紐が掴めた。
えりかは女の子の顔を見下ろしてみた。笑顔がキラキラして見える。

……ここで、早く渡してあげなきゃ、と思ったのが間違いだった。
まず自分が椅子から降りてから、ゆっくりと慌てずに渡せばよかったんだ。
椅子に乗ったまま、しゃがんで風船を手渡そうとしてしまったため、
えりかは椅子の上でバランスを崩してしまい、身体が大きく前に傾いた。

「あ、あぶない!!」 女の子のお母さんの大きな声が響いた。
大丈夫、女の子の方にだけは倒れないから!えりかは崩れたバランスを直そうと体を起こして
逆に後ろに体を反った。しかし、踏ん張ろうとして椅子の端に足を置いてしまい、今度は椅子ごと
バランスを崩してしまった。

「きゃあっ!!」

バタンと大きな音がして、えりかは倒れる椅子といっしょに真横に落ちてしまった。
固い床に腰から落ちてしまったみたいだ。すごく痛いはずだが、気にしている暇はなかった。
せっかく掴んだ風船の紐を、思わず手放してしまったからだ。

「あ、風船が……!!」

倒れたまま、必死で伸ばした手は、あっけなく空を掴んで終わった。
女の子もお母さんも、今は倒れたえりかに気を取られて風船どころではないようだ。
えりかが手放してしまった風船は、今度はどこにも引っかからずに、そのまま吹き抜けの
三階部分の天井へ向けてゆっくり昇っていった

(そんなあ……!!)
せっかく頑張ったのに……、せっかく取れたのに……。
腰の痛みではない涙が、えりかの瞳に滲んで溢れそうになったとき、

「ほっ!!」

颯爽と高くジャンプした女性が、空中で風船の紐を掴むのが見えた。
涙で滲んだ、ぼやけた視界だったが、えりかは間違うことなく、

「舞美!!」

と、その頼もしい妹の名前を呼んだ。


ほっと安堵の表情を浮かべたえりかの顔を、風船を手にした舞美と、
女の子のお母さんが同時に覗きこんだ。

「えり、大丈夫!?」「……大丈夫ですか!?」

もう、みんなでそんな顔してたら、女の子まで心配しちゃうじゃないの。
えりかは床に手を着いて上半身を起こし、そのまま力を込めて立ち上がってみた。

「……だいじょうぶ、みたい」

微笑むえりかに、今度は舞美とお母さんが同時に安堵の表情を見せた。

「舞美、それよりその風船、女の子に……」
「えりから渡しなよ、はい」

舞美が笑顔でえりかに風船を手渡すと、えりかはそのままその風船の紐を、
女の子の手にギュッと握らせてあげた。

「はい。もう放しちゃダメだよ」
「うん」

うなずいて、えりかを見上げる女の子の頭を屈んでから撫でてあげると、
お母さんが、あらためてえりかに頭を下げた。

「じゃあね」「バイバイ」

お母さんに促されて、広場を去る女の子を、えりかと舞美は手を振って見送った。
振り向いて、恥ずかしそうに手を振る女の子がとっても可愛かった。
二人の姿が、お店が連なるフロアの人込みに紛れて見えなくなった頃、

「えりかちゃん見つけた!」「何してたの!?」

先にえりかを見つけて駆けつけた舞美から遅れて、姉妹たちがやって来た。
その瞬間、えりかが腰に両手を当てて、膝からペタンとその場に崩れた。
「えりかちゃん?」「どうしたの!?」みんなが心配する中で、
「……痛い」えりかはそのままゆっくり後ろに倒れこんだ。



「いた、いたた……」
「大丈夫えりかちゃん!?もうちょっとだから」
「よいしょ!……っと」

舞美と愛理の肩を借りて、広場の隅にある休息用のスペースまで運ばれたえりかは、
そこにあるベンチにそっと腰を降ろして「ふう」と息を吐いた。

「……えり、大丈夫!?」
「ねえ、お医者さんとか行かなくて平気!?」

舞美と愛理が訊いた。みんなも心配そうだ。
「そうだ!救急車呼ぼうか!?」千聖が興奮して言った。

「やめてよ千聖、そんな恥ずかしい!!」

えりかは慌てて言うと、座ったまま自分の腰をさすり、軽くひねってみた。

「……それに、そこまで酷くないみたい。多分ちょっと打っただけだと思う。
 ここで座って休んでれば大丈夫だから。……ありがとうみんな」

その言葉に、みんながちょっとホッとした顔になった。そして、

「あたしはここに座ってるから、みんなはその間にお買い物に行ってよ」
「何で!?ウチらも一緒にここにいるよ」
「そうだよ!」

続けたえりかの言葉に、「いかにも水臭い」とでも言うようにマイと栞菜が答えた。

「でもさあ、せっかくお買い物に来たのに、みんなでこんなとこに座ってても楽しくないよ。
 それに時間だってもったいないし。……ねえ舞美?」

えりかは、そこで舞美の瞳を覗きこんだ。

「……そうだね。じゃあ、えりが休んでる間、みんなでお買い物の続きをしてようよ。
ほら、愛理の大事なお洋服を選ぶんでしょ」

――ありがと舞美。
えりかは『自分の失敗のせいでみんなに迷惑をかけたくない』という気持ちを、
瞬時に汲み取ってくれた舞美に感謝した。

「でもさ、お洋服はえりかちゃんが……」

ちょっと不安そうに口を開いた栞菜に、

「みんなで相談しながら選ぼうよ。みんな、そんなにセンス悪くないから大丈夫だよ」

舞美がその肩をぽんぽんと叩きながら答えた。

「じゃ、行こ!」

みんなを促して歩き出した舞美が、振り返って、

「えり、もし我慢できないくらい痛かったら、ね」

右手を顔の横に上げ、ケータイを構える仕草をしてみせた。
えりかは舞美にあらためて感謝すると同時に、

(ごめんね愛理……)

ちょっと後ろめたい気持ちで、愛理の後ろ姿を見送った。
早貴が、最後まで心配そうにえりかを振り返っていたような気がする。



イベント広場を正面に見渡すスペースで一人になったえりかは、特に何をする気にもなれず、
背もたれのある横長のベンチに深く体を預け、あらためて正面を眺めてみた。

「イベント広場」と呼ばれるそこには小さなステージが常設され、上に掲げられた看板には、
今日は聞いたことがない漫才師の名前と、本日のイベント開始時刻が書かれている。
ステージ開始前の今は、まばらに人がいるだけだ。

――そういえば、あの時は吹き抜けの二階と三階の部分まで人がいっぱいだったな。

“愛理のこと ”を考えたからかな。えりかはまた昔のことを思い出した。
まだ小学生の頃、家族みんなでお買い物に来て偶然に観た、わずか数曲のステージ。
名前も聞いたことがない、その読み方すらよくわからない女の子のアイドルグループ。

……だけど、そのステージとパフォーマンスに、あっという間に魅了された。
パパの仕事柄、それまで常に音楽は身近にあった。みんな音楽は好きだった。
だけど、この日の“それ”は圧倒的に違うと思った。
わずか数人の女の子が、ただ歌とダンスだけで、人を感動させられる事を知った。
文句なしにすごいと思った。そして憧れた。

興奮冷めやらぬまま家に帰り「あたし大きくなったら歌手になりたい!」と、
一番最初に手を上げるたのはえりかだった。
「あたしも!」「ウチも!」みんなが競うように声を上げる中「……あたしも」と、
一番最後に、愛理が恥ずかしそうに小さく手を上げたのを憶えている。

――あの頃、まだ、夢はみんな叶うと思っていた……。

「えりかちゃん」

えりかはその時、自分を呼ぶ声に振り向いた。
そこには、片手に小さな袋を下げた早貴が立っていた。


「……じゃ、いい!?えりかちゃん」

えりかの隣に座った早貴が、前屈みのえりかの服の裾をチラリとめくり、その露出した腰に、
瞬間冷却式の消炎鎮痛スプレーを吹きかけた。

「きゃあ!ちょ……、なっきぃそれ冷たいッ!!」
「我慢してえりかちゃん、だってここで湿布は嫌でしょ!?」
「う……、こんなとこで人に見られながら腰に湿布を貼られるなんて絶対に嫌だ!」
「だったらちょっと我慢して!」
「んんんんん〜……」

それでも、つい声が出てしまう。冷たいけれど気持ちいい。
そのうち腰の感覚自体が麻痺してきたようだ。

「どう!?えりかちゃん」
「……うん、ちょっと楽になった気がする」

服の裾を直すと、えりかは思わず「ふー」と息を吐いて、倒れるように背もたれに
大きくもたれこんだ。

「ありがと、なっきぃ。それ、わざわざ買ってきてくれたんだ」
「ううん、ついでがあったから」

早貴が、そう言ってスプレーを持ってきた薬局の袋に戻した。

「ねえ、なっきぃ。多分これで大丈夫だと思うから、みんなのところに戻っていいよ」
「なっきぃは、えりかちゃんとここで一緒にいるよ」
「そう?」

なっきぃの『ついで』って何だろ!?なっきぃは何でみんなのところに行かないんだろ!?
ちょっと気にはなったが、特に深く考える気にはならず、えりかは何気なく上を向いてみた。
広場の上、吹き抜けの天井部分に、いくつかの風船が引っかかっているのが見えた。
きっと、さっきの女の子みたいに、うっかり誰かが手放しちゃったものだろう。

「……ねえ、なっきぃ。あの風船って誰が取るのかなあ?」

えりかが、上を見上げたままなっきぃに訊いた。

「あー、あんな高いところ誰も届かないよ」

えりかの視線の先に気付いた早貴が、可笑しそうに言った。

「じゃあ、あの風船どうなるんだろ!?」
「ほら、風船って、ほうっておいたら空気が抜けちゃうじゃない?そのうち、
 萎んで小さくなって落ちてくるんだよ」
「そうかあ……」

そして、えりかが気の抜けたような小声で呟いた。

「つっかえて、萎んで、落ちてくる、かあ……」

(まるで、あたしの夢みたいだ)

えりかは、再び昔を思い出すように目を閉じた。


――ねえ、えりかの将来の夢は?
最初は、可愛い奥さん、そして料理上手な優しいお母さん。
それから、色んな職業に憧れた。なりたいものがいっぱいあった。
ケーキ屋さん、お花屋さん、看護師さん、幼稚園の先生。
セーラームーンと答えたこともあったっけ……。
訊かれる度に答えが変わり、移り気で飽きっぽい子だとパパにもママにも笑われた。

そんなある日、ここで“あのステージ”を観た時から、えりかは「歌手になりたい」と思った。
えりかだけじゃない。姉妹みんなが同じことを口にした。みんなは、どれだけ本気だったか
わからないけど、えりかは初めて「これしかない」と、本気で思った。
パパは喜んで、みんなのためのレッスンとトレーニングを考えてくれた。
えりかは、初めて夢に向かって努力した。苦しいけれども楽しかった。

そして、えりかは気付かされた。この世には「持って生まれた才能」と
「努力では埋めがたい差」があるということに……。
パパの音楽の才能を、引き継ぐ才能を持っていたのは愛理の方だった。

やがて「これ、やってみないか?」と、パパにドラムスティックを渡された。
えりかの歌手への想いは、何だか急に萎んでいった。

……ああ、やばい、また涙が出そうになってきた。
愛理は、今も自分が信じた夢に向かい、一歩一歩を着実に進んでいる。
なのに、あたしときたら、何をしてるんだろう?
愛理を素直に応援してあげることもできずに、自分で勝手に落ち込んで、
【腰が痛くてまだ立てない】なんて【つまんない嘘】までついて……。

「ねえ、なっきぃ。やっぱりみんなのとこへ……」

涙が出るのを見られたくなくて、えりかは早貴の方を向いて言い、

「なっきぃ!?」

早貴の瞳から、大粒の涙がこぼれているのに驚いた。

「ちょっと、なっきぃ!?どうしちゃったの!?」
「あたし、みんなのとこにいたくないから来たの……」
「え、なんで!?」
「……だって、あたしは、本当はみんなみたいに素直に愛理を応援出来ないんだもん」
「ええ!?」

早貴の言葉に、えりかはドキッとしてその泣き顔を見つめた。

「ねえ、えりかちゃん。えりかちゃんも、ここのステージ憶えてるよね?」
「……うん」
「歌手になりたいって思ったのは、みんな同じだったのに、結局才能があるのは愛理だけでさ……。
 何で愛理ばっかり……」

下を向いた早貴の頬を涙が伝い、それを見たえりかはあらためて驚いた。

(負けず嫌いなのは知ってたけど、まさかここまでとは思わなかったぞ……)

そして、同時に早貴の言葉に、ギクリとさせられた自分がいることに気付いた。
(嫉妬深くて、負けず嫌いの悔しがり)
まるで、自分の心の奥底を見透かされたようだ。

「ねえ、えりかちゃんもそう思わない?」

早貴が、同意を求めるようにえりかの顔を見上げた。

「あたしは……、愛理のことは……」

素直に、自分の心情を吐露して涙を見せた早貴。
だから、あたしも素直に、それに答えなければいけない……。
少しの沈黙の後に、えりかは口を開いた。

「……でも、愛理は一人だけ頑張ったじゃん。なっきぃも知ってるでしょ?」

「歌手になりたい」と言った日、パパはとても喜んでくれた。
そして、みんなの真剣な気持ちを確かめると、自宅でレッスンを始めてくれた。
音楽家のパパが考えてくれたレッスンは、「姿勢」「呼吸」「リズム」「発声」「発音」と
多岐に渡る本格的なもので、とても厳しかった。パパは音楽となると人が変わった。

みんな、普段の優しいパパとの差に面食らったが、それでも必死でレッスンについていった。
「歌手になりたい」という想いは、みんな本気だった。

そのうち、レッスンを重ねるごとに、愛理が一人だけ「ちょっと違うぞ」ということに
みんなが気付き始めた。何のレッスンでもみんなを上まわる愛理は、明らかに『歌がちょっと
上手な小学生』である自分たちとはレベルが違う気がした。

年下の愛理に追いつけない悔しさ。
そして、えりかが大好きだった、普段は人一倍優しい、欲しいものは何でも買ってくれるような
甘いパパと、レッスンのときの誰よりも厳しいパパとの違い。
えりかの中に溜まり始めていたストレスを、パパも気付いていたようだ。
「パパも昔、少しやってたんだ。気持ちいいぞお」とえりかにドラムを進めてくれたのは、
そのストレスを発散させるためだった。

厳しいレッスンの後は、みんなの気持ちを考えていつも以上に優しかったパパ。
「言い過ぎちゃったかな!?嫌われてないかな!?」と後でオロオロしていたというのを
ママから聞いて、「パパ可愛い!」とみんなで笑いあった。

パパが教えてくれたドラムも、えりかの性に合っていたようだ。
ドラムを叩いていると、嫌な気分が全て吹き飛ぶようで、とにかくスカッとした。
思いきりドラムを叩いた後は、また明日から頑張ろうという気になった。
えりかは、「優しいパパ、大好き!」とあらためて思えた。

――そんなある日、パパが突然の事故でこの世を去った。

それから、みんなの意識が少し変わった。
音楽が常に身近にあった生活から、無意識のうちに音楽を遠ざける生活へ。
歌手になりたいという想いは変わらなかったけど、レッスンは続けられなくなった。
音楽に関わることで、優しかったパパを想い出すのがつらいから。

――ただ一人、愛理を除いては。

「……ね。愛理は才能があっただけじゃ無いんだよ。あの子もすごい悲しかったはずなのに、
 たった一人で、ずっとパパが教えてくれたレッスンを続けてさ。本当にすごいと思う」

えりかは、自分の心を探って見つけた、愛理への素直な気持ちを早貴に伝えた。

「…………でもさ、みんなで愛理、愛理って、愛理ばっかり応援して」

早貴が口を尖らせて、ふて腐れたように言った。

「それはさ、みんな愛理に託してるからだよ、自分の夢を」

えりかは、さっき食堂で栞菜が言った言葉を思い出した。
「だって、愛理の夢はみんなの夢なんだからね!」と。
そうだ。自分じゃ叶えられない夢でも、愛理ならきっと叶えてくれる。
みんなそう思ってるから、愛理に託して、そして自分のことのように応援してるんだよ。
そして、それは、間違いなくあたしも同じ気持ちだ。 えりかはそれを早貴に伝えた。

「でもさ……」

まだ納得がいかないように、早貴が口をはさんだ。
(……おかしいぞ。たしかになっきぃは負けず嫌いだけど、
 こんなことをしつこく言い続ける子じゃ無かったはずだ?)
えりかの頭に小さな疑問が浮かんだとき、早貴が再び口を開いた。

「じゃあ、才能がないあたし達は、ただ愛理を応援するしかないの?……そんなのって悔しいじゃん」
「なっきぃ……、それは違うと思うよ」
「違う……?」
「……そう、なっきいには、愛理とは違う才能があるじゃん」
「……あたしの、才能!?」
「そうだ、なっきいには『ダンス』があるじゃん。なっきいは、ダンスが好きだって言ってたじゃん!
 ずっと続けたいって言ってたじゃん!」
「えりかちゃん……」

えりかは、早貴がダンスを始めたきっかけを思い出していた。
たしかに、歌の才能ではみんな愛理にかなわないと思った。
でも、私達が憧れたのは、歌とダンスで多くの人を魅了する、アイドル歌手のステージだ。
だから、早貴は音楽家のパパのレッスンにはないダンスを始めた。

たった一人で、手探りではじめた始めたダンスはお世辞にも上手とは言えなかった。
こっそり涙を流す早貴を見たことがある。きっと何度も挫けかけたに違いない。
しかし、見よう見まねであらゆるステップを覚えていくうちに、早貴は自分が 「これ好きかも?」と
思えるダンスのジャンル(ジャズダンス)と出会えた。

好きなダンスを踊る楽しさを感じ始めた早貴は、やがてダンスが得意な先輩と出会った。
共に汗を流し、競いあう仲間が出来たことで、早貴のダンスは飛躍的に上達していった。
そして、早貴のダンスの才能が開花した。
それから早貴は、姉妹みんなに『ダンスの楽しさ』を教えてくれる存在になった。

「……そうだよ、夢なんて破れたら、また違う夢を探せばいいんだよ。
 その人にしか出来ないことが、その人だけの才能が、きっとあるはずなんだから!」
「その人だけの……才能?」
「そう、その人だけの才能!」
「……じゃあ、えりかちゃんの才能は?」

えりかは、早貴に言い聞かせた言葉を、自分の中であらためて噛み締めた。
早貴は、そうやって努力してダンスの道を見つけた。
でも、あたしには、どんな才能があるのだろうか……?
そのとき――、

「よかった、まだここにいらっしゃったんですね!」
「あ!」

不意に声を掛けられて気付いた。さっきのお母さんと女の子がえりかの前にいた。

「もう行っちゃったからいないよって言ったんですけど、この子が探すって言ってきかなくて。
 ……ほら、アイちゃん」

お母さんに促された女の子が、片方の手をおずおずとえりかに差し出した。

「……どうも、ありがと!」
「え、これ?」

女の子の小さな指先には、白い棒の付いた丸くて小さいキャンディがあった。

「この子、どうしてもキレイなお姉さんにお礼をするんだって。
 これ、いま自分のおこずかいで買ってきたんです」

女の子が、恥ずかしそうにえりかの顔を見上げていた。

「……こっちこそ、ありがと――!」

キャンディを受け取ったえりかが、思いきりの笑顔で女の子の頭を撫でてあげると、
ずっと照れてた女の子が、鏡を映したように笑顔になった。

「それじゃあ、本当にありがとうございました」
「バイバイ」「バイバイ」

お母さんが頭を下げ、えりかは再び女の子と手を振って別れた。

「よかったね、えりかちゃん。キレイなお姉さんだって!あの子、完全に憧れの目で見てたねー」

早貴が、悪戯っぽい目でえりかを見上げた。

「……ねえ、えりかちゃん。女の子はキレイに生まれるのも、一つの才能だと思うよ!」
「え!?」
「それがえりかちゃんの才能なんだから、えりかちゃんはそっちの道を進めばいいと思うよ!」

早貴が、さっきまでの泣き顔が嘘のような笑顔で言った。
その笑顔を見て、えりかはハッキリと気付いた。

「ねえ、ちょっと待って、なっきい!もしかして、それを言うために、さっきから愛理の話を!?」
「うん。えりかちゃん、なんだか元気が無かったから、どうしたのかなっていろいろ考えて。
 きっと愛理のことで落ち込んでるのかなーって思ってさ」
「なにそれ!?」
「えへへへへ、でも、えりかちゃんなら、最後はきっとああ言ってくれると思ったよ」
「でも、なっきぃ、さっき泣いてたじゃん!?」
「ああ、あれ?ほら、あたしドライアイじゃん?薬局で自分用の目薬買ってきたんだけどさ」

早貴が、さっき消炎スプレーを入れた薬局の袋から目薬を取り出してみせた。

「えりかちゃんがぼーっと天井を眺めてる間に、横でこっそり差したんだけどさあ、
 えりかちゃんったら全然気付かないんだもん」
 
そう言って、早貴がいかにも可笑しそうにケラケラと笑った。

「もう、なっきぃーー!!」

見事にしてやられたえりかが声を上げた。
それでも、本気で怒る気にはならなかった。
なっきぃが、あらためて答えを教えてくれた気がしたから。
あたしの才能。あたしだから出来ること。キレイでいること、キレイだからできること……。

「あはははは、ごめんねえりかちゃん。さ、腰が治ったら愛理んとこ行ってあげよ。
 で、一緒に愛理を応援してあげよ」

立ち上がった早貴の視線の先に、

「あ!」

えりかは愛理を見つけた。
そこには愛理の他にも、姉妹みんながクレープを持って立っていた。

「ちょっと聞いてよえりかちゃん。愛理ったらまた急に『クレープが食べたい』なんて
 言いだしてさあ」

栞菜が言い、愛理が「えへへ……」と頭を掻いてみせた。

「もう、せっかくみんなでお洋服選んであげてたのに。……はい、これはなっきぃの分ね」
「あー、ありがとー!」

早貴が、栞菜からクレープを受け取り礼を言った。そして「はい、これはえりかちゃんに」と
愛理が両手に持っていたクレープの一つをえりかに渡した。「ありがとう愛理」えりかが笑顔で
そのクレープを受け取った。

「……ねえ、えりかちゃん。腰はもう大丈夫?」

栞菜がえりかに訊いた。

「え、うん」
「じゃあ、これ食べたら今度はみんなでお洋服を見に行こうよ。やっぱりえりかちゃんじゃないと。
 えりかちゃんのコーディネートなら、きっと愛理も文句を言わないよ」

栞菜が言った。早貴が、横でニコニコしながら見守ってくれている。
ごめんね、なっきぃ。何だかとっても心配をかけてたみたいだ。
でも……。

「……ううん」

えりかが首を横に振った。「えりかちゃん!?」早貴が驚いて声をあげた。
「えりかちゃん、何で!?」同じく、驚いた顔の栞菜が訊ねた。愛理が不安そうな顔で、
ずっとえりかを見つめている。

でも、大丈夫。ちゃんとわかってるから。
えりかは静かに口を開いた。

「……愛理はさあ、自分のルックスとか、可愛いお洋服のセンスとか、そんな外見で判断されたく
 ないんでしょ?あくまで自分の歌の実力だけで評価して欲しいんだよね?」
「……うん」

愛理が小さく頷いた。

「もうさ、さっきから顔見てればわかるよ」

えりかが言うと、愛理がホッとした顔になった。

「なあんだ。じゃあ何で言ってくれなかったの?」

栞菜が少しふくれて言うと、

「だってさ、栞菜があんまり一生懸命だったからさ、言い出せなくてさ……」

愛理が今度は困ったように眉を下げた。

「いいじゃん。みんな、それだけ愛理に期待してるってことだよ。
 それに、愛理なら大丈夫だよ、どんな格好しててもさ。みんなだってわかるでしょ?」

えりかが、まず愛理に、そして栞菜を含むみんなに言った。

「そうだね」
「愛理なら大丈夫かあ」
「愛理だもんね」
 
えりかの言葉に、みんなが頷いた。

「……な、何を言っとるんでぃ〜」

照れた愛理が、慌ててよくわからない口調で答えた。
しかし、誰よりも愛理を知るあたしたちの思いはみんな同じだ。
『愛理ならきっと大丈夫だ』と。

「ね、愛理」

もっと早く言ってあげられなくてゴメンね愛理。
気持ちを込めたえりかの言葉と、見守るみんなの顔に、愛理はあらためて、はにかんで笑った。

「……えりかちゃん」

早貴と顔を見合わせたえりかは、二人にしかわからない笑みを浮かべた。

「もう、こんなとこで立ってないで座って食べようよ」

舞美が言い、みんなで座れる場所を探した。
休憩所の丸テーブルを、両隣のテーブルから椅子を一脚ずつ借りてきて、千聖とマイが
一つの椅子に半分ずつちょこんと腰掛けて、無理やり七人で囲んだ。

「おいしい!」えりかが言い、「ね!」「んー!」とみんなが満足気にクレープを食べた。

「ねえ、えりかちゃん。そのキャンディどうしたの?」

千聖が、えりかがテーブルに置いたキャンディに気付いて訊いた。

「これ?……ほら、これ小さい風船」えりかは、千聖が持っていた黄色い風船を真似て、
キャンディを指先でつまんで小さく掲げてみせた。

「そんな小さな風船なんて無いよお」

早貴が言い、つられてみんながドッと笑った。
よかった、とえりかは思った。
今日は、朝から落ち込んで『みんなと居るときは、常に明るくみんなを笑わせてあげたい』のに
それができそうもなくて、『腰が痛くて立てない』とか、つまんない嘘までついちゃった。
おまけに昔の夢とか思い出して、愛理に小っちゃい嫉妬なんかして、そんな自分にまた凹んで、
早貴に余計な心配をさせた。

でも、もう大丈夫。
えりかの瞳に、正面にあるステージが映って見えた。
(昔、誰かに憧れたこの場所で、あたしも少しは誰かに憧れられる存在になれてるのかな?)
えりかは、そっとキャンディを胸ポケットに仕舞った。

……そうだ。【今回】は駄目だったけど、それで全部が終わった訳じゃない。
いつまでも落ち込んでても仕方ない。
あたしの、新しい夢は、まだ始まったばかりなんだから。

「ねえ、じゃあこれからどうしようか」クレープを食べ終えた栞菜がみんなに訊き、
「みんなでプリクラ撮りに行こうよ、さっきの可愛いやつ」愛理が答えた。

「……そうだ!その前にさあ、何だかみんなに心配かけちゃったから、お詫びのしるしに、
 あたしがみんなに好きなもの一つだけ買ってあげるよ」

えりかが提案すると、「本当?やったー!」とマイが即座に喜んでみせた。
しかし、マイ以外のみんなは「そんなの悪いじゃん」「いいよいいよ」と手を振っている。

「いいって、あたし今日は自分のお洋服買わなかったんだから、その分のお金が使えるし。
 あ、でも、あんまり高いものは買えないけどね」

「でも……」と、それでも遠慮をしているみんなに、「じゃあさあ、千聖にまかせてよ」と、
立ち上がった千聖がポケットから畳んだ一枚の紙を取り出した。

「ちゃんと持ってきてるんだから。ほら、これを見て安いものを買おうよ」

千聖が顔の前でその紙を広げてみせると、

「あ――!!そのチラシ、千聖が持ってたの――!?」

それを見たえりかが、立ち上がって大声を上げた。
そして、えりかが指した方を向いたみんなが、それを見つけてさらに驚きの声を上げた。

「あー!!」
「これ!?」
「えりかちゃん!?」

丸テーブルを囲んでいたみんなが立ち上がり、指した千聖のチラシには、婦人服のモデルとして
ポーズを取っているえりかが写っていた。

「すごーい!これ本当にえりかちゃん!?」
「ねえ、えりかちゃん、こんなのいつ撮ったの!?」
「もう、本当にプロのモデルじゃん!!」

小さいけれども数点、確かにモデルとして載っているえりかの姿に、つい興奮したみんなの大声が
周りの多くの人の注目を集めてしまっている。
……本当は、今朝、朝食のテーブルで、誰かが偶然にこのチラシを発見して、そこで大騒ぎに
なるはずだったんだけどな。
思わぬ場所で、思わぬ人たちの注目と反響まで集めてしまい、

「……ま、まーね」

用意していた台詞を答える、えりかの声が少し上ずった。

「やだ、えり、何で教えてくれなかったの――!?」

大事なことを隠されていたからか、少しふくれ気味に舞美が言った。
でも、隠していた訳じゃないんだ。
もちろん、みんなをびっくりさせるためだけに黙っていた訳じゃない。

小さい頃から移り気で、いつも口が先だった。
だから今回は、何かが「形」になるまでは簡単に口にしたくなかったんだ。
だって、今度の夢は、本当の本気なんだから。

スカウトされて入った小っちゃなモデル事務所の、新聞チラシのモデルなんて小っちゃな初仕事。
だけど、あたしにとっては、大きな大きな夢への、この記念すべき第一歩!

……でも、本当によかった。てっきりボツになったと思ってた。
ネガティブな妄想はすぐに膨らみ、やっぱり何かの間違いだったんだ。本当はあたしなんてと
落ち込んでしまってたのに……。
えりかは、安堵が涙に変わって溢れてきたのをごまかすために、

「……ちょっと、あ――た達。あたしの夢を知らない訳じゃないでしょ?
 あたしの目標は世界を又にかけるスーパーモデルなのよ!こんな小さなスーパーのチラシくらいで
 いちいち騒いでられる訳ないじゃなーい?」

わざと高飛車に宣言してみた。まったく、せっかくバレないようにツンと上を向いてみたのに、
「えりかちゃんおめでとう!!」「おめでとう!!」と素直に祝福してくれるみんなの声に、
えりかの涙はあっけなく頬を濡らした。


結局、えりかが使うはずだったお買い物予算は、大して迷うこともなく、みんなお揃いの、
七人分の携帯ストラップになった。
それから、愛理が撮りたがっていたプリクラをみんなで撮りに行った。
七人で入れる、広めに仕切られた機械に入り、えりかが言った。

「じゃあ、また千聖とマイちゃんが前でいいよね?」

ちょっと狭いけれども、七人で写真を撮るのは慣れたものだ。
いつものように小さい子から順に、自然に三列を作ろうとすると、

「今日は、えりが真ん中ね」

舞美が言い、えりかを中心に七人が様々なポーズでフレームに収まった。

「じゃあ落書きしようよ。ねえ、何を書こうか?」

ペンを手に取り訊く千聖に、えりかが迷うことなく答えた。

「そんなの決まってるじゃん、あのねえ……」

そして、えりかが決めたお題の言葉を、みんながそれぞれ書き込んだ。
「えへへへ、これ風船に貼っちゃおう」小さい一枚を備え付けのハサミで切り取った千聖が、
気に入ったらしい黄色い風船に貼りつけた。


そのままゲームコーナーで少し遊んで、またいろんな売り場を見て回った。
みんなで予算に合わせて少し買い物をして、手の届かないものはきゃあきゃあ冷やかして、
えりかたちはショッピングモールを跡にした。
歩いて駅前に戻ったときに、まだ日は高かったけれど、あまり帰りが遅くなる訳にはいかない。

「ねえ、一回帰ってからまたお買い物に行くのめんどくさくなっちゃった。
 今日の晩御飯は店屋物でもいい?」

一家の、今日のお買い物と晩御飯を担当するえりかが訊いた。
ショッピングモールにもスーパーはあったけれど、お買い物をした後に歩く時間と、
電車に乗って帰る時間を考えたら生ものが買えない。
結局、一度家へ帰ってから、また近所のスーパーへ買い物に行くことになる。
今日は何だかいろいろあって疲れちゃったから手を抜きたいな、と思ったえりかに、

「え〜!?だってえりかちゃん、今日の晩御飯は千聖の好きなもの作ってくれるって
 言ったじゃないかあ」

千聖が不満気に言った。

「ウソ、そんなこと言ってたっけ?」
「昨日の夜、約束したじゃん!いつも買い物に行くと、お洋服いっぱい買いすぎて大変だから、
 千聖が荷物を持つの手伝ってくれたら、晩御飯は千聖の好きなおかずを作ってくれるって」

そう言えばそんな約束をしてた気がする。
昨日の夜はまだ、いっぱい買い物する気マンマンだったからなあ。

「もう、千聖はそのために今日は自分のものあんまり買わなかったんだからね。
 でも、えりかちゃんの荷物も今日は少ないから助かっちゃった、あはははは」

……なんだ、千聖があんまり買い物をしなかったのは、みんなに遠慮してたんじゃないのかあ。
屈託なく答える千聖の笑顔に、えりかは拍子抜けしてしまった。

「あのねえ、えりかちゃんの作るオムレツすごく美味しいんだよ!」

そして、その千聖の言葉を聞いたえりかが、何かを決意したように舞美の方を向いた。

「……ねえ舞美、お財布の中にまだ余裕ある?」

「うん。あるけど、どうしたの?」
「じゃあ、あたしもやっぱり、あそこでお洋服買う!!」

えりかが、振り返って駅前にそびえるファッションビルを指差した。

「えー!?」
「今からあ!?」
「だって、千聖オムレツが食べたいんでしょ?じゃあ、いっぱい買い物して、ちゃんと
 荷物持ちさせてあげないと悪いじゃん」
「そんな、悪くなんかないよお」
「いいから、行くよッ!」

そう言うと、えりかは颯爽と駅前の交差点を渡って行った。



「じゃあじゃあ、今度はそっちー!!」
「ねえ、まだ見るのえりかちゃん?」

ファッションビルに入ると、あちこちの店を飛び回るえりかに、千聖があきれて言った。

「いいじゃん、これからはモデルのお給料だってもらえるんだし。久しぶりなんだんだもん、
 またいっぱいお洋服を買ってやるんだ!」
「えー!?」

そうだ、これからは自分で稼いだお金で、大好きなお洋服をいっぱい買うんだ。
(だから、……今までありがとうパパ)
えりかは、どこかで見守ってくれていると信じるパパに、あらためて感謝をした。

「ねえ見て見て栞菜、このお洋服すっごい可愛い!」
「ちょっと愛理、さっきはあんなにお洋服見るの嫌がってたくせに!」
「それとこれとは別だってば。あー、あれも可愛い!!」

愛理と栞菜が楽しそうに騒いでいる。「あたしたちも、安いお洋服ならまだ買えるかなあ」
「こっそり買っちゃおっか」舞美と早貴とマイがが悪戯っぽく笑っていた。
「もおお!」自分が持たされる荷物が増える予感に、千聖が一人頬を膨らませていた。



「ほら千聖、早くしないと信号が変わっちゃうよ」
「待ってよお、荷物がいっぱいで大変なんだってば」

ファッションビルを出て、再び駅へ向かう交差点の真ん中で、両腕の脇にいっぱいの荷物を
抱えた千聖が、脇からこぼれそうになった荷物を持ち直そうとして、それまで風船の紐を
大事に握っていた手を、思わず開いてしまった。

「あ、千聖の風船が!」
「仕方ないじゃん千聖、諦めなよ」

空に昇っていく黄色い風船を見上げる千聖に、えりかが諭すように言った。

「でもさあ、あの風船に、さっき撮ったプリクラ貼ってあったんだよ。
 もしどこかで落ちてきて、誰かに見られたら恥ずかしいじゃん」
「大丈夫だよ、絶対に落ちてこないから」
「……?」

えりかの言葉に、千聖がきょとんとした目でその顔を見返した。
でも、きっと大丈夫。『みんなの夢』を書いて貼った風船だもの。
もう、絶対に萎んで落ちてきたりしない。
だから、あたしの夢、みんなの夢、そのままどこにもつっかえずに、まっすぐに天まで昇っていけ。

「……そのまま、飛んでけー!!」

えりかの明るい声につられて、姉妹みんなが空を見上げた。
黄色い風船が、高く澄んだ空に吸い込まれて小さくなっていくのを、みんなで見送った。


(ねえ、えりかの将来の夢は? )
どこからか、声が聞こえた気がした。
(みんなが憧れるような、素敵なモデルさんになること)
えりかは、今なら自信を持って答えられる。

――今度の夢は、諦めない。
強い決意を抱いたえりかの瞳が、高い空の蒼を映して輝いて見えた。
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