愛理'sパレット

ある夏の午後。
愛理は姉の栞菜といっしょに使っている自分の部屋で、明日の登校に備えて
すでに終えた宿題を忘れないように、一つ一つを丁寧に確認していた。

――長かった夏休みも今日が最後。
自慢じゃないが、不思議と勉強は嫌いじゃない。
愛理は、宿題を夏休みの半ばには全て終わらせてしまっていた。

成績も良く、クラスでは学級委員も努めている愛理。
時に「愛理は優等生だもんね」なんてなんて皮肉っぽく言われることもあるけれど、
マイペースな愛理は気にすることもない。

「ワークブックよし、自由研究よし、と……」

それを通学カバンに詰めながら、『宿題をまだ終えていなかった、みんなの昨日までの喧騒』を
思い出して、ちょっと可笑しくなった。

リビングでは、最後のテキスト帳と格闘する千聖とマイに
「もう、こんなギリギリまでやらないから苦労するんだよ」と
ちょっとお姉さんぶって、わからないところを教えてあげたりした。

でもおかげでみんな昨日のうちに無事宿題をやり終え、始業式前日の
今日のこの家はとても静かだった。

「読書感想文もよし、と。うーんバッチリじゃないのあたし。
 それでこの画用紙は……と」

一枚の白い画用紙を手にして、愛理の動きが止まった。

(一枚の画用紙……、真っ白い画用紙……)

 ――――――――――――――――

「ねえねえねえねえ、あたし夏休みの宿題で絵を描かなきゃいけなかったんだ!
 どうしようどうしよう!?」

気持ちよく冷房を効かせたリビングの静寂が、画用紙を抱えて飛びこんできた
愛理の声で一気に破られ、ソファに座っていた早貴と栞菜が驚いて顔を上げた。

「なに、今日は愛理の番なの!?」

テーブルに向かい、色とりどりのペンを使って、友達にあげるのだろう
可愛い手紙を書いていた早貴があきれて訊いた。

「でもさあ、愛理が宿題を忘れてるなんてめずらしいね」

ソファに寄りかかってケータイ小説の単行本を読んでいた栞菜が言った。

「べ、別に忘れてた訳じゃないんだけどさあ」

愛理は照れくさそうに言い訳をした。
そして、昨日あんな偉そうなこと言わなきゃよかったな、と思い
千聖とマイが今日はここにいなくてよかったな、と少しホッとしていた。
あ、でも関係ないか、どうせ後で……。

「愛理ってさあ、たしか『絵』描くのは苦手なんだよね〜?」

早貴が、手に持っていたペンを空に描く仕草をしながら可笑しそうに言った。

「苦手じゃないもん、……好きだもん」
「だって、あの大仏の絵さあ」
「う……」

早貴が言い、愛理の言葉が詰まった。栞菜が思い出して吹き出している。
そうだ、忘れないぞ。ちょうどメンバーだ。
いつだったか、この三人で絵を描いて遊んでいたとき、いつの間にかそれぞれが『お題』を出して
それを見ないで想像で描くというゲームになった。
誰かが出した『大仏』というお題に愛理が描いた絵で大爆笑された。

それでも、あれは爆笑されても仕方がないと自分でも思う。
パンチパーマのような大仏の頭が、まるでアフロヘアーのように広がり、よせばいいのに髭まで
付けてしまって、とってもファンキーな大仏さまになってしまった。
絵を描くのは大好きなんだけど、以来早貴には「愛理って、実は絵が苦手なんじゃないの?」と
からかわれるようになってしまった。

「でもさあ、愛理今から何描くの?」
「あのね、今から何を描くもの探すの大変だから、今回は人物画にしようかなって思って。
 それでさあ、二人でモデルになってくれない?」
「いいよン」

困り顔の愛理の頼みに、栞菜が軽〜い返事でOKをした。

七人もの姉妹全員に一人部屋が与えられるほど余裕の無いこの家では、
下から順に年齢の近いマイと千聖、愛理と栞菜が二人で一部屋を使わされている。
そのため愛理と栞菜は、一緒にいる時間も当然長くなり、自然といちばん仲が良くなる。

ありがとう、やっぱり栞菜だ!なんて愛理が喜んでいたら……、

「でもその代わりさあ、今度お風呂入るときはいっしょに入ろうよ」

栞菜からあきれた条件が付けられた。はあぁ〜、、、

――誰よりも姉妹思いで優しい栞菜。
だけど『みんなが大好き!』という気持ちを隠そうともしないストレートな性格は、
人一倍の淋しがりやなところと相まって、『好きな人とはいつもくっついていたい・
触れ合っていたい』ところがある。

だから手をつないだり腕を組んだりは当たり前。
それは愛理も嬉しいのだが、『お風呂だけはゆっくり一人で入りたい』主義の愛理は、
これまで栞菜の『いっしょにお風呂』攻勢だけは頑なに拒んできたのだ。
しかし、この際は仕方がない……。

「しょうがないなあ、一回だけだよ」
「ホント!?やったあ」

栞菜の瞳が輝いた。たく、女同士で風呂に入るのがそんなに楽しみなのか!

「あたしもモデルくらいやってあげるよ、だって学級委員が宿題忘れるわけには
 いかないもんねえ」

早貴が皮肉たっぷりに答えた。
むぅ、さっきから厳しいことを……。

――甘えん坊で『泣き虫』からそのあだ名が付いたなっきぃこと早貴。
そんななっきぃだったのに、いつの間にか姉妹でいちばんのしっかり者になっていた。
いや、パパとママが亡くなった時、しっかりせざるを得なくなった。
だって一番上の姉二人が、おトボケさん(えりか)と天然さん(舞美)だから。

しかし、たくましくなるのはいいのだけれど、最近はちょっと口も悪い!
なっきぃが本来持っていた負けず嫌いの性格と相まって、ちょっとしたミスなんかで
チクチクチクチク皮肉られるようになった。ああ……。

「ありがとう二人共、じゃあ描かせていただきます」

愛理は頭を下げると、早貴と栞菜の向かいに座って画板を構えた。
画用紙の上をサッサッと鉛筆が走る軽い音がリビングに響き、静かに時間が流れた。

……訳が無かった。

「ちょっと栞菜、変な顔しないでよ」
「なんで、この顔カワイくない!?」
「ムービー撮ってるんじゃないんだから、そんなに目パチパチさせなくてもいいよお」
「でも、ただジッとしてるのも退屈なんだもん」
「そうだね、じゃあ私も待ってる間に愛理の顔描いちゃお」

早貴が、目の前にあった便せんにペンを走らせはじめた。

「こうこう、こんな感じ……」
「あー似てる似てる、カワイ〜!!」
「そぉお!?キャハハハ!」
「…………」

切羽詰まって焦る愛理の前で、二人が楽しそうにはしゃぎはじめ、

「できたー、ねえ愛理まだなの!?私もう描き終わっちゃったよ、ほら」

愛理の顔を描いた便せんを掲げてみせる。
ここでまた早貴の『負けず嫌い』癖がでたようだ。

「……もういい、違う人描く」

愛理が立ち上がって言った。

「あー愛理ゴメン、怒っちゃった!?」
「ううん、違うの。もっとモデルに向いてる人思いついたから」

早貴の言葉に、愛理が答えた。
そうだ、この二人はもういい。
愛理は画板を抱えてリビングを後にした。

 ――――――――――――――――

「モデルぅ〜!?」

愛理の言葉に即座に反応したえりかが、
遊んでいた携帯ゲーム機のスイッチを切って言った。

「あー、ひどーいえりかちゃん!」

えりかの部屋で、大きなベッドに腰掛けて、えりかと
流行の携帯ゲーム機を通信で対戦していたらしいマイが怒った。

「なに言ってんの、ほら愛理が困ってるのにほっとけないでしょ」
「でも、今せっかくマイが勝ってたのにー!!」

納得できないらしいマイが不満の声を上げた。

「でも、やっぱモデルっていったらアタシしかいないじゃん!?
 だから勝負はおあずけ、また今度ねー」
「あーあ、せっかくマイが一週間分勝ってたのにい」

どうやら何かを賭けて勝負をしていたらしい(なんてやつらだ)。

「でも、ファッションモデルじゃなくて絵のモデルなんだから、
 しばらくじっとしてて欲しいんだけど大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、そのかわりちゃんと実物通り綺麗に描いてよ」
「うん、ありがとうえりかちゃん!」

愛理はえりかに礼を言い、ベッドに腰掛けて画板を構えた。
やっぱりモデルといえばえりかちゃんだ。

――姉妹一の長身とスレンダーな体型を誇る姉のえりか。
おシャレへのこだわりは人一倍、ファッションセンスも抜群で、
将来はモデル志望の自称クールビューティー。その『自称』がちっとも
嫌味に聞こえないほど、そのルックスとプロポーションはまさにモデル並!
……ただし『喋らなければ』の条件が付く。

明るいえりかは、誰かがいると持ち前のサービス精神でいつもみんなを笑わせてくれる。
「そこまでやらなくてもいいよ」ということまで平気でやってしまうそのお笑い根性は、
そこらのお笑い芸人より全然面白かったりするのだ。

でも今日は大丈夫だろう。モデルと聞いたときのえりかは気合が違うことを知っている。
愛理は安心して鉛筆を走らせはじめた。

「でもさあ、せっかくモデルやるんならもっとおシャレした方がいいよねえ」

えりかの言葉に愛理はギクリとした。そして嫌な予感がした。

「いいよ別にお洋服なんてなんでも」
「そんな訳にはいかないわよ、だって愛理それ学校に持っていくんでしょ?
 おかしな恰好してたら恥じゃん。ちょっと着替えるわ」

始まった……と愛理は思った。おシャレへのこだわりが悪い方に出た。
えりかがクローゼットをあさりはじめた。
こういうときのえりかはとんでもなく時間がかかることも知っている。

「シャツはこれでいいでしょう、
 あ、でもこのシャツにこのパンツの色はいまいちだな」
「ねえ、上半身しか描かないからパンツなんて何でもいいよお」
「そうはいかないわよ、これは気分の問題よ気分の」

そう言ってえりかは再びクローゼットに向かった。

「あ、そうだ、メイクもちゃんとしなきゃ!」

ああえりかちゃんはもうダメだ、下手をすると夜まで
クローゼットとドレッサーの前を行ったり来たりだ。
愛理はえりかを描くのをあきらめて、ベッドに座って成り行きを見つめていた
マイの方を向いた。

「マ〜イちゃん」
「や〜だよ、愛理なんか昨日あんな偉そうなことを言ってたくせにさあ……」

愛理の猫撫で声に、即座にマイが拒否の返事をした。

ああ、やっぱり根に持ってる。弱ったな……。
マイは、いちどヘソを曲げたらなかなか直らない子だ。
今は、勝っていたはずのゲームの電源を途中で切られて特に機嫌が悪そうだ。

ん、さっきのゲームって、そういえば……。

「マイさあ、さっきゲームで勝ったら一週間分の何とかって言ってたじゃない?
 それあたしが代わってあげるから」
「ホント!?」

ふくれていたマイの瞳が急に輝いた。
まったく、現金なやつだ。お得な話には本当に目がないんだから。

――最年少ながら、そのルックスと考え方がいちばん大人なマイ。
その貫禄に、姉妹の誰もが一度は「本当は私のお姉ちゃんなのでは!?」と錯覚し、
相談したり指示を仰いだりする。だが、その大人な考えは現実的すぎて、物事をまず
『損か得か』で判断するのが悪いクセだ。

とにかく『お得』な話が大好きで、どんなに怒っていても、泣いていても、
何かおいしい話(ご褒美)があるとすぐにケロリと機嫌を直す。
「一番好きな人は?」の問いに「サンタクロース!!」と答えたときは愛理も
(夢があって可愛いやつ)と思ったが、その理由が「だって無料(タダ)で何でも
くれるんだよ!?信じられないじゃん!!」だったのを聞いたときはあきれた。
とにかく、いろいろと大人になったら心配ではある。

「でもさあマイ、一週間分の何をすればいいの?」

きっと一週間分のお掃除当番か何かかな!?と軽く考えていた愛理が訊ねた。

「ん、何かをするんじゃなくて、一週間分のおやつを賭けてたの」

おやつ……!?
その微笑ましい言葉の響きに、愛理はちょっと可笑しくなった。
誰よりも大人っぽく現実的なくせに、こんなところはまだまだ小学生らしい。

「あ、ちなみにおやつってこれだから。デパ地下で一番人気の超最高級スウィーツ!!」
「ちょ、超最高級スウィーツ!?」

そして、マイに手渡されたカタログを見て、愛理はさらに仰天した。
ちょっと待って……!?何だこの値段……!!

「愛理、じゃあ一週間分よろしくね!」
「あは、あはははは……」

前言撤回、……まったく、どこが小学生らしいんだ。
愛理は力無く笑いながら後ずさり、そのまま後ろ手で部屋のドアを開けた。

「じゃあ、さよーならー」
「あー、待ってよ愛理」
「そうだよ、モデルやってあげるって言ってるじゃん」
「う、うん。やっぱりいいや。……あ、あ、よく考えたら二人は今日のお夕食当番でしょ?
 きっと忙しいかなあと思ってさ、ありがと。じゃあね」

そう言って愛理は慌ただしく開けたドアから逃げ、いや出ていった。
と、あっけにとられていた二人の前でドアが開き、

「ねえ、舞美ちゃんとちっさーは?」

再び愛理が顔を出した。
愛理の問いに、えりかが答えた。

「そんなのいつもの所に決まってるじゃん」

 ――――――――――――――――

家から少し離れた「いつもの」公園で、愛理は千聖を見つけた。

「絵のモデル!?千聖を描くのぉ?イヤだよ恥ずかしいもん」

愛理のお願いに、木陰の芝生に座りこんでいた千聖が照れて答えた。

「お願い、昨日宿題教えてあげたじゃないの!」
「うーん、じゃあさあ、一つだけお願いがあるんだけど、いい?」
「え、なになに……!?」
「あのさあ、色を塗るとき、ちょっとだけ色白にして欲しいの」
「あはー、なんだそんなこと?」

「今度は何を頼まれるんだろう」とちょっとドキドキした愛理は、
その意外で可愛いお願いに拍子抜けしてしまった。
小さい頃から外で走り回って遊ぶのが好きで、いつも真っ黒に日焼けをしている千聖。
そして、毎年「今年こそ美白」と口にするわりには、「日焼け止めが効かないんだよ」と
言い訳し、今年も変わらず外で遊び歩いている。
それでも、気にしてないようでけっこう気にしてたんだ、と愛理は可笑しくなった。

――いつもやんちゃで元気な、ちっさーこと千聖。
活発で、騒がしくて、男の子みたいに見えて、実はとても照れ屋で繊細。
いつも周りに気を配り、人にも動物にも優しい。恥ずかしいと両手で顔を覆い、大きい子の
後ろに隠れる癖は最近直ったようだが、今でも後ろから誰かを立てるところは変わらない。

「わかった。まかせて」

愛理がそう言って千聖の正面に座り、抱えてきた画板と鉛筆を構えたその時、

「――ゴール!!」

の大声とともに、二人の間に舞美が飛びこんできた。

「はぁ、はぁ……。どう、ちっさー?今回のタイムは良かったでしょ!?」
「あー、ゴメンね舞美ちゃん、ストップウオッチ止めるの忘れてた!」
「ちょっと、千聖ー!!」
「違うよ、愛理が絵を描くから絶対動かないでって言うから」
「え〜!?」

愛理は思わず声が出てしまった。
たしかにモデルは頼んだけど、誰もそこまで言ってないぞこいつめ。

「もー、今の絶対新記録だと思ったのにー!!」

舞美が芝生にへたりこみ、そのまま置いていたスポーツドリンクをガブ飲みした。

多くの木に囲まれた公園に設けられた、一周が300メートルほどの木陰の遊歩道。
そこを五週、約1500メートルを走るのが舞美の夏休みの日課になっていた。
陸上部に入っている訳でもない、なにかの大会に出る訳でもないのに、
夏休み中に『自己ベスト』の記録を更新するのが目標だそうだ。

――運動神経抜群で、特に走ることが大好きな舞美。
嬉しい事があったときも、悲しい事があったときも、舞美はいつもここを走っている。
多くの人たちがゆったりと散歩やジョギングを楽しむこの遊歩道を、舞美は常に
独りで、誰よりも早く、全力で駆け抜けていく。

走ることの何がそんなに楽しいのか愛理はわからない。
だが、舞美は本気で練習をすれば、陸上部で記録を狙えるレベルであることを知っている。
しかし、パパとママが亡くなってから、舞美が愛理たち姉妹の世話のために
大好きな部活動を辞めたことも知っている。

「気にしないで」といつも舞美は言う。そんな訳にはいかない、と愛理は思う。
だけど何もしてあげられない。自分には何をしてあげられるかわからない。

自分にできることは、たまにここへ来て、舞美が走っているのを眺めるだけだ。
そして、わかっていることは、走っているときの舞美は最高にカッコいいということだけだ。

「じゃあもう一回走るから、今度はちゃんと計ってよ」

汗を拭き、息を整えた舞美が言った。

「ずるいよ舞美ちゃん、かわりばんこって言ったじゃん。
 今度は千聖の番だよ」

千聖が、舞美にそう言ってストップウオッチを押し付けた。

「あー、ちっさー絵はぁ!?」
「あーごめん愛理、じゃあ走っていると……」

後半が、よく聞き取れないほどのスピードで千聖が駆け出していった。
どうやら「走っているところを描いて」と言いたいらしい。
もう、そんな器用なことができる訳ないじゃん。

千聖のこの夏の目標が「持久走で舞美ちゃんに勝つ」ことだったのを忘れてた。
短距離では絶対勝てないが、文字どおり持久力とペース配分などの戦略が要求される
持久走なら勝てるかもしれないっていうのが千聖の考えだった。
今から遊歩道を五周、1500メートル……。時間が無い、もう千聖はあきらめよう。

「ねえ舞美ちゃん、あたし明日までに宿題で何か絵を描かなきゃいけないんだけど、
 舞美ちゃんの顔を描いてもいい?」

愛理は、座りこんでいる舞美に頼んでみた。

「なに愛理、それで来たの?いいよ私でよかったら」
「でもさあ、描き終わるまでじっとしてて欲しいんだけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ、それくらい」
「ありがとう舞美ちゃん」

あっさりと、何の条件もなくOKする舞美に、(なんだ、最初に舞美ちゃんのところに
来ればよかったな)と愛理はなんだか気が抜けてしまった。
そして、あらかじめ決めていた紙の【その場所】に舞美の顔を描き始めた。
たまに千聖がその横を、かなりのハイペースで走り抜けていく。そして、

「――ゴール!はッはッ……。ねえ舞美ちゃん、今のタイムどうだった?
 舞美ちゃんの記録より早かったでしょ!?」

あっという間に1500メートルを走りきった千聖が、その疲れを感じさせる間もなく訊いた。

「あ、ゴメンねちっさー。急に走り出すもんだからスタート押すの忘れてた!」
「えー!?もー舞美ちゃん!!」
「あはは!いいじゃん、おあいこだし」

舞美が笑いながら答えた。

「でもさあ、今の絶対舞美ちゃんより早かったって!」
「えーそうかなあ!?」

夏休み最終日、「打倒・舞美!」の記録に燃える千聖が真剣に食い下がり、
陸上競技には絶対の自信を誇る舞美がそれをかわしている。

「じゃあさあ、もう直接勝負しようよ。いっしょに走って先にゴールした方が勝ち。
 そしたら千聖が絶対勝つんだから!」
「いいよお、負けないから!じゃあ愛理ちょっと待っててよ」
「えー、ちょっと舞美ちゃん!?」

千聖の挑発に、舞美は簡単に乗ってしまった。
でも、舞美ちゃんは責められない。悪気がないのがわかってるから。
いつも一つのことに気を取られると、他のことなんて全部忘れてしまうんだもの。

「……じゃあよーい、スタート」

かけ声と共に、二度目とは思えない元気さで駆けていく二人の後ろ姿を見送りながら、
できれば『絵』の方に気を取られてて欲しかったな、と愛理は溜め息をついた。

まったく、これを【思いついたときから、苦労する】とは思っていたけど予想以上だ。

西の空が下からオレンジ色に染まり、長かった夏の陽が暮れようとしている。

(ああ、もう時間がないぞ、どうするんだあたし……!?)

夕陽を見すえた愛理の口が、ギュッと固く結ばれた。

 ――――――――――――――――

「――えっ?じゃあ愛理はまだ絵を描けてないの!?」
「ちっさーと競争するのに夢中になってたらさあ、愛理のこと忘れちゃって」

夕食の支度を終えたえりかの問いに、公園から帰ってきた舞美が答えた。
ダイニングキッチンの、一つでは足りなくて二つをくっつけた長方形のテーブルには
すでに七人分の夕食が並び、愛理を除く姉妹がみんな揃っていた。

「でもリビングにいたのお昼すぎなのに、まだ描けてないんだ……」
「悪いことしちゃったな、いつも優等生で何でも余裕の愛理があせってるのって
 めずらしいから、ついついからかっちゃって……」

栞菜と早貴が反省したように言いあった。
そこに、愛理が入ってきた。その険しい表情に姉妹みんなが驚いた。

「あ、愛理ぃ、ごはん出来てるよ」
「…………」
「愛理さあ、絵、どうする?結局何を描くの?」
「…………」
「そうだ、ごはん食べ終わったらウチがタダでモデルやってあげるよ」
「…………」

えりかと舞美とマイが愛理に気を使っていろいろと話しかけたが、愛理の表情は変わらない。
そして、そのまま無言でしばらく姉妹みんなの顔を眺めたあと、

「あたし今日晩ごはんいらない、いそいで絵描かないと間に合わないから」

そういい残して、くるりと振り返りキッチンから出ていってしまった。
愛理の気配が遠ざかり、それから一斉に姉妹たちがどよめいた。

「見た!?今の愛理の顔!!」
「うん、怖かったー!!」
「ねえ、愛理めっちゃ怒ってるんじゃない!?」
「愛理のあんな目はじめて見たよ〜!!」

みんなが競いあうように口を開く中、

「ううん、愛理のあの目は……」

栞菜がひとりそう呟いた。

 ――――――――――――――――

「愛理、まだ起きてる?ちょっと休んでごはん食べな」

夜も十時半を周ったころ、おにぎりとおかずをお盆に乗せたえりかが 、
愛理と栞菜が共有する部屋をノックした。だが中から返事はなかった。
ドアの前には、えりかの他に「愛理の邪魔になるから」と 部屋に戻らずに
リビングにいた栞菜の他、「愛理に謝んなきゃ」とみんなが揃っていた。

「いい愛理、入るよ?」

舞美がドアをそっと開け、みんながおそるおそる中を覗くと、
愛理は絵を描いていた机に、ライトを点したままでつっぷして眠っていた。

「なんだ愛理、寝てるよ」
「あーあ、顔に絵の具が付いちゃう、よ……!?」
「あー、この絵……!!」

部屋に入っていき、机の上の『絵』を見た舞美が声を上げた。
それは画用紙を縦に使い、手前からマイと千聖、その上には栞菜となっきぃ、
いちばん奥にはえりかと舞美が並んで描かれた『姉妹の絵』だった。

「すごい、もう描けてたんだ」
「それに六人全員描いてある」
「色もちゃんと全部塗ってあるよ」

その『絵』を見てみんなが驚いている中、

「でもさあ、この絵なにも見ないでどうやって描いたんだろうね?」

千聖がおそらく『みんなが思っているであろう』疑問を口にした。

「あ、きっと写真見て描いたんじゃない?」

と答える舞美に、

「ううん、きっと憶えていったんだよ、さっきキッチンに来たときに。
 だってほら、この絵みんなの今日の髪型とお洋服といっしょ!」

栞菜が言って、「あ……!?」 みんながこの『絵』と自分たちの姿を見比べてまた驚いた。
そして、さっきのキッチンでの愛理の表情を思い出した。

「だってあの目は、愛理がいつも勉強してるときと同じ目だもん。
 きっと全部記憶してからこの部屋にきて、思い出して描いたんだよ!」

栞菜が続けて言った。
それは愛理と二人で同じ部屋を使い、誰よりも愛理を見ている
栞菜だから知ることだった。

――ときに『絵に描いたような優等生』なんて皮肉を込めて周りに揶揄される愛理。
しかし、栞菜は知っている。何の努力もしない『優等生』なんて存在しない。
栞菜は見ている。何を言われようとも気にせずに、黙々と机に向かう愛理を。
みんなが寝た後も、いつも栞菜に気を使いながらも机に向かう、愛理の真剣な表情を。
誰よりも努力家なその横顔を。

「やっぱりすごいね愛理は」
「うん。この絵も可愛く描けてるよ」

早貴と栞菜が言った。
そして、感心したみんなが愛理の(ちょっぴり絵の具が付いてる)横顔を見下ろした。

「でもさあ、この絵上手に描けてるんだけど、何か物足りない気がしない?」

そんな中、舞美が思っていた素直な感想を口にした。

「あー、わかる。何か足りないカンジ!?」
「贅沢言っちゃダメだよ。モデルを見ないで描くのが苦手な愛理がここまで描けただけでも
 すごいと思わなきゃ」

えりかと栞菜が遠慮なく答え、そこでみんなが笑いあった。その時、

「あ、わかった!」

早貴がそう言い、愛理の部屋から出ていった。


…………、

うるさいなあ。
なんか遠くでみんなの声が聴こえるぞ!?
いったい何を笑いあってんだ?
おかげで、せっかくの美味しそうなステーキと河童巻きが逃げちゃったじゃないか。

それにしても今日は疲れちゃったな……。
まったく、こんな『絵のテーマ』で宿題を出す先生が悪いんだ。

それでも、一人ずつを描き足していくのは大変だったけど、
ちゃんと全員が描けてよかったな。

だって、誰か一人だけなんて、選べるわけないじゃないか。
忘れてたフリをして、焦ってる真似でもしないと、恥ずかしくて頼めるわけないじゃないか。

そんな、『私の好きなもの』だなんてさ。

……ああ、相変わらずみんなの笑い声が聴こえる。
それにしてもみんな楽しそうだな。
あたしのいないところで、そんな……ズルイ……ぞ……、

……………………。


「ねえ、足りないのってこれだよ」

一枚の紙を手に戻ってきた早貴が、愛理の机のペン立てのハサミを取り、
そこに描かれたモノを丁寧に切り抜いて、それを愛理の絵の上にそっと重ねてみた。
すると愛理の絵の中に、愛理を含む姉妹七人が全員揃った。

「ほら、これでピッタリ!」
「おー、本当だ!」

他のみんなに重ならないように、絵の真ん中の、マイと千聖の手前に置かれたそれは、
昼間にリビングで早貴が便せんに描いた愛理の姿だった。
その愛理の絵は、水彩画とペン画の違いはあっても、なんの違和感もなく
ぴたりと収まり、絵の中では七人がお揃いの笑顔を浮かべていた。

「なんだ、足りないのって愛理だったんだね」
「うん、やっぱりこうでなくちゃ」

舞美とえりかが言い、そこで、みんながまた笑いあった。



みんなが笑うその場所の、みんなが笑顔の絵の隣で、
そのまま深い眠りにおちた愛理の横顔は、なんだかとっても幸せそうに見えた。
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