負けないで
●総合病院−内科受付

 これは、いつかの2月のころから始まるおはなし。

 「あれ?、同姓同名?」
 「そう、しかも、かたや86歳の大正生まれ、こっちは16歳の平成生まれ」
 「その差70歳か〜。昭和をすっ飛ばした同姓同名ねぇ」

 看護師さんたちのあいだでちょっと話題になった人物のひとりは、壁を一枚隔てた待合
室で、ときどきゴホゴホとセキをしている。

●総合病院−待合室

 2週間くらい前から風邪をひいていたえりかちゃん。なかなか風邪が治らなくって、市
販の薬もいくつか買って飲んでたんだけど、ゆうべはついにセキをすると背中が痛くなる
ようになっちゃって、観念して病院に来た。えりかちゃんって、なぜか病院嫌いなんだよ
ね。

 「『恋する乙女の歴史絵巻』…か」

 どうせ待ち時間が長いだろうと思って、病院に来る途中に本屋さんで買ってきたファッ
ション雑誌。その特集記事は、平安時代から現代までの「恋文」、いわゆるラブレターの
様々な形態や文面を紹介している。昔は2mもある巻物だったり、木の板だったりってい
うのもあったんだね。恋心を伝えるのに「紙とペン」の役割ってホント重要だったんだな
…って思ってみたり。現代は携帯メールで済ませちゃう人だっているのにね。でも、その
内容はっていうと、「『好き』っていう気持ちを伝えること」…つまり本質は変わってい
ないんだよね。なんかすごい。

 そんなふうに待ち時間を過ごして、大方の記事に目を通し終えたころ…。

 「矢島さん、矢島えりかさん」

 やっとこさ、えりかちゃんの順番が来たらしい。えりかちゃんは雑誌をバッグにしまう
と、診察室のほうへ向かった。

●総合病院−内科の診察室

 カルテを受け取った先生が看護師さんにたずねる。

 「これ、ホント?!」
 「はい、珍しいですよね。まったくの同姓同名さんです」
 「びっくりだね。さて、あと3人、患者さんを診たら寺田先生に交代します。先生に伝
  えておいてください」
 「分かりました」

 「次の方、どうぞ」

 「(5番、『北国の春』、歌います)」などというギャグを思いつきながら、診察室の
丸い椅子におずおずと座ったえりかちゃん。だけど、さっきより背中の痛みが強くなった
気がするので、いつもの陽気な表情にはなれないでいた。まあ、病院に来ているんだから、
陽気な表情をする必要はないんだけどね。

 目の前に座っているお医者さんは、えりかちゃんがイメージしてた「お医者さん像」よ
りもずっと若くて、なかなかガッシリした体格の7:3分け。カルテを見ながら、なにや
らノートに書き込んでいる。そのカルテを持つ左手の薬指には、指輪がはめられていた。

 「矢島さんですね、風邪ですか?」
 「はい、セキがなかなかとまらなくて…」
 「もうどれくらいセキしてます?」
 「2週間…くらいかな?、あ、いえ、だと思います」

 そういった会話をしながら、のどの具合をみたり、聴診器を当てたりといった、型どお
りの診察を受けた。

 お医者さんとはいえ、男性と面と向かってやりとりをするのは苦手だと思っていたんだ
けど、先生の話し方や、ひとつひとつの作業が「流れるように」スムーズで自然だったの
で、それほど緊張せずに済んだのは良かったのかも。襟元の広いTシャツを着ていったの
で、聴診器を胸に当てるときはどうってことなかったけど、背中に当てるときには、たく
し上げなきゃいけなかったから、ちょっと恥ずかしかったくらい。

 「肺炎の疑いもありますので、レントゲンを撮りましょう。それと、採血もしておきま
  しょう」
 「はい」
 「あちらの看護師さんが案内しますので、ついていってください。お大事に」
 「はい、ありがとうございました」

 先生は聴診器での診察が終わったあとは、カルテにいろいろと書き込んでいて、そのま
まほとんどえりかちゃんと目を合わせることなく、診察が終わってしまった。けっして先
生や看護師さんの応対は悪くないんだけど、なんとなく釈然としない気分のまま、案内に
ついていった。

●総合病院−ふたたび待合室

 えりかちゃんはベンチに座って、口をとがらせて天井を見つめている。そのとき、カウ
ンターからの呼び出しの声は耳に入らなかったみたい。

 「矢島さん、矢島えりかさん」

 レントゲンの撮影も、採血の注射も、すべてが手際よく、ホント「型どおり」にスムー
ズに進んで、なんだかあっという間に終わってしまった。待ち時間の割に、実際の診察時
間はとっても短い。さすがは総合病院というかなんというか…。でも、なんだか自分が見
えないベルトコンベアで運ばれる「モノ扱い」されているみたいな気分になっちゃって、
釈然としない気持ちがフツフツとこみ上げてきて「もうちょっと優しさとかユーモアがあ
ってもいいんじゃない?!」なんて考えていた。

 さっきみてもらった診察室のほうをぼーっと眺めると、背中が90度近く曲がった、で
もちょっとオシャレなおばあさんが、杖をつきながらそこに入っていくところだった。

 「あれ?、あたし…、さっき呼ばれた?!」

 えりかちゃんはあわてて受付のところに駆け寄って、カウンターにいる看護師さんにた
ずねた。

 「矢島ですけど、今、呼ばれました?」
 「あ、すいません、今呼ばれたのは、同姓同名のおばあさんのほうです」
 「あばあさん?!」

 今診察室に入っていった人だ。あのおばあさんが同姓同名?、えりかちゃんは内心びっ
くりして、また診察室のほうをじっと見つめた。

 もう一度待合室のベンチに戻り、ファッション雑誌を開く。さっき見ていた特集記事の
続きは「かっこいい出会いのシーン」。ありがちな出会いのパターンをインタビューした
統計が載っている。記者オススメの出会いスポットや、流行のお店がいろいろと紹介され
ている。

 「病院…ってのは、ないよね。さすがに」

 結婚式のスピーチで「お二人の出会いは、病院でした」なんて紹介されるのも、なかな
か恥ずかしいものがあるなあ、なんて空想を広げながら、えりかちゃんはページをめくっ
ていった。

 「矢島さん、矢島えりかさん」
 「はい!」

 今度はちゃんと自分が呼ばれたんだろうか?、思えば同姓同名さんがいると、いちいち
確かめに行かなきゃならないような気がして、面倒くさくなってきた。いっそのこと「矢
島えりかBさん」とか「平成生まれの矢島えりかさん」って呼んでもらったほうがいいの
に…、とか考えながら、えりかちゃんは席を立った。

 「採血の結果は明日の午後に出ますが、明日の午後以降では、いつ来られますか?」
 「はい、明日の午後来れます」
 「では、明日の14:00前後に受付をしておいてください」
 「はい」
 「お薬は中に説明書が入っていますので、用法・用量をきちんと守ってくださいね」
 「はい」

 看護師さんのセリフ(?)の最後の部分が、市販の薬のCMとまったく同じようなこと
を言われたので、ちょっとびっくりしたついでに、くすっと笑ってしまった。えりかちゃ
んは会計を済ませ、病院を出た。

●総合病院−自転車置き場

 病院の裏手にある自転車置き場に向かっていると、後ろから走ってくる足音が、コンク
リートに響いて聞こえてくる。

 「矢島さんっ!、すいません!」

 ふりかえると、さっき診察してくれた先生が追いかけてきたみたい。その手には薬の袋
を持って、えりかちゃんのそばまで駆け寄ってきた。さっきは見えなかったんだけど、先
生は白衣にIDカードをぶら下げていて、そこには先生の顔写真と「塩田」という名前が
書かれていた。

 「申し訳ありません。お渡しする薬を間違えてしまったようなのです」
 「ええっ?!」
 「ちょっと見せていただけますか?」

 促されて、えりかちゃんはバッグからさっき受け取った薬の袋を取り出し、先生に渡し
た。

 「やっぱり、『注意しろ』と言っておいたのに…」
 「なにか違うんですか?」
 「いえ、矢島さんと同姓同名の方がいらっしゃるんですよ、そちらの方と間違えてお薬
  をお渡ししてしまいまして…、ほら、ここ」
 「え?」

 先生が指差したところには、確かにえりかちゃんの名前と年齢が書いてあるんだけど、
よく見ると「87歳」と書いてある数字の「8」が細長くつぶれていて「17歳」と書い
てあるように見えるのだ。

 「なんつうアナログな間違い…」
 「ホントだ(笑)」
 「間に合ってよかった。大変申し訳ありませんでした。本物はこちらです。会計は間違
  っておりませんので大丈夫です」
 「あ、すいません、届けてもらって」
 「いいえ、当然のことです。こちらこそ大変失礼しました。お気をつけてお帰りくださ
  い」
 「ありがとうございました」
 「あ、マスクは着けないんですか?」
 「ええ、着けるのを忘れてきたので」
 「では、これを差し上げますから、どうぞ使ってください」

 そういって先生は、白衣のポケットから新品のマスクを取り出して、えりかちゃんに渡
した。

 「ありがとうございます」
 「まだまだ寒いですから、外を出歩くときはマスクを着用したほうがいいですよ。次に
  いらっしゃるのは、いつですか?」
 「明日です」
 「では、お大事に。お気をつけて」

 「(なんだ、いいところあるじゃん)」なんて思いながら、えりかちゃんは自転車に乗
って病院をあとにした。「(塩田先生か…)」仕事中はクールでテキパキとしていて、そ
うでないときは丁寧な話し方で優しい…。うーん、なんかカッコいいオジサンだなあ。

●総合病院−翌日の売店

 お昼ご飯を食べてから、自転車でゆっくりと来たつもりだったけど、受付をするはずの
午後2時にはまだ早い時間。暇つぶしついでに病院の売店でいろいろと品物を見ているえ
りかちゃん。

 「(そういえば昨日、あの先生にマスクもらっちゃったんだっけ。新しいの買っておこ
うかな)」なんて、上のほうにぶら下がっているマスクを眺めてみる。時代というかなん
というか、今は様々な目的や形のマスクが売られているんだね。そうやって右から左へと
ずらっと並んでいるマスクを見比べているうち、昨日の先生にもらったのと同じマスクを
発見!、それを手にとろうとしたら…

 「(ゴツンッ!)」
 「いった!」
 「す、すいません!」

 マスクを買おうとして手を伸ばしたついでに、隣で買い物していた人の頭に、きれいに
肘打ちをお見舞いしてしまったえりかちゃん。偶然とはいえ災難にあった被害者は、なん
と昨日の塩田先生だった。

 「おや?」
 「あ、き、昨日はどうもありがとうございました。ごめんなさい。大丈夫ですか?」

 先生は白衣ではなく、ずいぶんとカジュアルに砕けた服を着ていて、うっすらとアゴに
ひげを生やしている。

 「あ、大丈夫です大丈夫です。いやはは、宿直明けでね。これから帰るところなんです
  よ」

 たしかに先生の「砕けた」服装はちょっとヨレヨレで、しっかりと「お疲れモード」を
演出していた。クールでテキパキなお医者さんも、夜通し働くとこんな姿になっちゃうの
か…なんて思った。

 「そうなんですか。昨日はマスクありがとうございました。助かりました」
 「お気になさらず。矢島さんの結果、出てましたよ。大丈夫そうです」
 「そうですか。ありがとうございます」
 「でも、用心はしてくださいね。風に当たるときはマスクを忘れずに」
 「はい」

 えりかちゃんがなんとなく恥ずかしい気分になったのは、白衣を着ていない先生の姿を
見て、プライベートを覗いてしまったような気がしたから。昨日と今日ではずいぶんと違
った雰囲気の「お医者さん」に、幻滅した…というわけではないんだけど、「見てはいけ
ないものを見てしまった」−−そんな感じがした。なので、えりかちゃんは買い物もせず、
その場をそそくさと退散してしまい、待合室に向かった。

 受付をしに行くと、その場ですぐに昨日の検査結果を知らされた。肺炎にはなっていな
かったということで、ひと安心。でも風邪の症状が完治するまで、外を出歩くときはマス
クを着用するようにといわれた。まあコレは当然のことなんだよね。ということで、病院
での用事はもう終了。

 「(なんだ、これだけだったら電話でもいいんじゃない?)」声にならないツッコミを
入れつつ、えりかちゃんは病院をあとにした。

●本屋さん

 「(まあ、ただの風邪ですんだのはよかったかな。とりあえず)」

 えりかちゃんは自転車をこぎながら、そんなことを考えていた。そして昨日買いそびれ
たファッション雑誌を買いに、通り道にある本屋さんにやってきた。病院で読んでいた雑
誌は、薄くて軽い雑誌。これから買う雑誌は、厚くて重い雑誌。こうして家に帰る途中で
買えば、無駄な体力を使わなくて済む。えりかちゃんなりに合理的なアイデア。

 お目当ての買い物を終えて、本屋さんから出てきて、ふたたび自転車に乗ろうとしてい
ると、なにやら大きなエンジン音の、青いスポーツカーが本屋さんのわきの駐車場に入っ
てきた。

 「目立つ車だなあ。あれ?、あの車のマークって…」

 えりかちゃんは病院で読んでいた雑誌をバッグから取り出し、特集のページを開いて、
そこからさらに何ページかパラパラとめくってみた。

 「あった!、『フェラーリ』じゃん!」

 その記事には「かっこいい出会いのシーン」が、なかなかクサイ演出でとりあげられて
おり、そのなかの1ページで紹介されている車がフェラーリだった。車の形こそちょっと
違うけど、ボンネットについている馬のマークは、たしかに『フェラーリ』のそれだった。
そして、なんとその車から出てきたのが塩田先生だったから、さらに驚いた。えりかちゃ
んは思わず雑誌で顔を隠し、うっすらとヒゲヅラの先生が自分の横を通り過ぎて行くのを、
じっと待った。

 「すっごーい。あの先生、超お金持ちなんだ〜」

 さっき売店で会ったときには、ちょっと親近感も湧いたりしたけど、またまた別世界の、
いや、遠い世界の人になってしまったような気がする。

 「うーん、やっぱ『医者さま』っつうのは、もうかる仕事なんだべな〜。シモジモの者
  にゃあ、わからねえべさ」

 ひがみというか皮肉というか幻滅というか…、そんなひとりごとを言いながら、えりか
ちゃんはウチに向かって自転車をこぎだした。

●ウチの近所

 そろそろウチに近づいてきたころ、背後から聞き覚えのあるエンジンの音が聞こえてき
た。さっきの「青いスポーツカー」が、えりかちゃんを追い抜いていき、その先の交差点
を左に曲がっていった。

 「あれ?、あの先生、ウチの近所なんだ?」

 ウチはその交差点を右に曲がった先なんだけど、なぜかえりかちゃんは左に曲がった。
するとはるか前方に、「青いスポーツカー」が、ハザードランプを点滅させて止まってい
る。あそこは確か、クリーニング屋さんの前だ。

 「いきなり生活感あふれるシチュエーションね(笑)」

 そうひとりごとをいいながら、えりかちゃんは自転車のペダルをこいだ。もう少しで車
にたどりつきそうになったとき、クリーニング屋さんから洗濯物を受け取った先生が出て
きて乗り込み、また走り出していった。

 「なによ?!、これじゃあ私、ストーカーじゃない?!」

 自分にツッコミを入れながらも、なんだか茶目っ気のわいてきたえりかちゃんは、マス
クをとって、ペダルをこぐ足に力を入れた。車はさらに先にある酒屋さんの前でまた、ハ
ザードランプを点滅して止まった。

 「なにそれぇ。私に『ついてこい』って言ってるのぉ?!」

 道はなだらかにアップダウンを繰り返していて、車ならどうってことないけど、自転車
で走るにはちょっと疲れる。えりかちゃんはうっすらと汗をかいているのを感じていた。

 「うーん、あんまりさわやかじゃない汗だわ」

 えりかちゃんはまた自分にツッコミを入れながらペダルをこいだ。「青いスポーツカ
ー」はその先も、花屋さん、惣菜屋さんと、それぞれの店の前で停車して、なにやら品物
を受け取り、また走り出し…を繰り返して、先生の家にたどりついた。

 「なんであたし、こんなことしてんのー?」

 えりかちゃんはすっかり汗だくになりながら、「青いスポーツカー」が吸い込まれてい
ったガレージのある家の前にたどり着いた。表札はたしかに「塩田」だけど、なんだか掃
除が行き届いていない、薄汚れた感じのする家だった。

 「ふーん…」

 車が入っていったあとは、なんだか人の気配がしない、明かりもついている様子がない、
さびしいたたずまいに包まれている家だった。さすがに大きい家なんだけど、なんだか人
が住んでいるような感じはしなかった。

 「(ポツリ)」

 なにかが額に当たった…、と思ったら、とたんに雨が降り出してきた。曇りがちの空だ
ったけど、まさか降ってくるとは思っていなかった。

 「やばっ!」

 えりかちゃんはあわてて引き返した。なんだかんだ、結構な距離を走ってきてしまって
いた。雨はどんどん強くなり、上空で雷も鳴り出してきた。アップダウンの道の低いとこ
ろでは、大きな水たまりができるほどになった。

 「どっかで雨宿りしよう」

 えりかちゃんは途中の花屋さんの軒先を借りることにした。親切なお店のおばさんがタ
オルを貸してくれて、それで濡れた髪や服やバッグをふかせてもらった。

 なんと、そのおばさんは舞ちゃんのことをよく知っていて、ときどきここに遊びにくる
のだという。こんなところも舞ちゃんの「ナワバリ」なのかと、えりかちゃんはちょっと
驚いた。

 「あーあ、買ったばかりの本がだいなしじゃん」

 10分ほど雨宿りしたけど、雨はいっこうに弱まる気配がしない。このまま待っていて
もいいけど、今度は家族の夕食の時間が遅れることになってしまう。仕方がないので、お
店のおばさんにカサを借りて、また家に向かってこぎだした。

●ウチ

 「ただいまー。もー、悲惨っ!!」
 「おかえりー。あーあ、ずぶ濡れだあ!タオル持ってくるね」
 「えりかちゃん大丈夫ぅ?、お医者さん行ってきたんでしょう?」
 「ああ、検査の結果は大丈夫だったよ。そこは安心」

 玄関では千聖と舞ちゃんが出迎えて、タオルを持ってきてあげたり、荷物をふいてあげ
たりしていた。

 「でも濡れちゃったねー。お風呂、先に入っちゃいなよ」
 「そうしよっかな。全部濡れちゃったもんな、今日は舞美遅いんだよね?」
 「うん!、クラブの先生の送別会っていってた」
 「送別会って、もうそんな時期だっけ?、ちょっと早くない?、まあいいけどさ。そし
  たらナッキーいるかな?」
 「いるよ。ナッキー!」

 私も呼び出されて、お風呂に入るえりかちゃんの代わりに、夕食の支度をすることに
なった。みんなで夕食を食べ終わった頃には、舞美ちゃんも帰ってきてみんなが揃い、
いつもと変わらない夜になり、いつもと変わらない「おやすみ」を言った。

●舞美ちゃんの部屋

 「もー…、いい・か・い?」

 舞美ちゃんは小さな声でつぶやいて、舞美ちゃんの右腕を枕にして眠っている舞ちゃん
の頭を、そっとずらした。寝返りを打った舞ちゃんの肩に毛布をかけなおすと、自分も仰
向けになって毛布をかぶり、天井を見つめた。となりの部屋からはときどき「ゴホッ、ゴ
ホッ」と、えりかちゃんの咳き込む声が聞こえてくる。

 「大丈夫かな…。『治った』っていってたけど…」

 そうつぶやいて、目を閉じた。昼間はとても騒がしい家だけど、こうしてみんなが寝静
まると、かえって静けさが寂しいくらいに思えてくる。本当に心地よい家なんだな…なん
て思ってみたり。

 「…」

 「(ゴホッ、ゴホッ)」

 「…」

 「(ゴホッ…、ゴホッ、ゴホッ!)」

 「…」

 「(ゴホッ、ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!)」
 「ちょっと!大丈夫なんかじゃないじゃない!!」

 舞美ちゃんは飛び起きてえりかちゃんの部屋へ行った。私も、その物音と舞美ちゃんの
叫び声に気づいて、すぐにえりかちゃんの部屋へ行った。

●えりかちゃんの部屋

 えりかちゃんはベッドで毛布にくるまったまま、セキが止まらなくて呼吸ができないく
らい苦しんでいた。舞美ちゃんはえりかちゃんを抱きしめ、背中をさすった。その額に手
を当てると、ものすごい熱が出ていた。

 「えりか!、大丈夫?!、すごい熱!、ナッキー!、救急車呼んで!」
 「は、はいっ!」

 私は初めて119番に電話した。今思うと、あのとき冷静にえりかちゃんの状況やウチ
の住所なんかを、消防署の人に伝えることができたのは、信じられないくらい、とっても
不思議なことだった。

●内科病棟−860号室

 「えり…、気が付いた?」

 そう、気が付いたら、病院のベッドの上…。

 「(うう、よくあるドラマのシチュエーションと同じだわ)」。えりかちゃんは自分の
置かれた状況に、冷静にツッコミを入れつつ、目を覚ました。左の手首には、点滴のチュ
ーブがつけられていた。舞美ちゃんは、ベッドの脇でずっとえりかちゃんを見守っていた
らしく、髪はボサボサ、目の下にはクマを作っていた。

 「みんな…、元気?」
 「人のこと心配してる立場じゃないでしょ(笑)。ホントゆうべはビックリしたよ」
 「ごめん…」
 「別に謝ることはないよ。救急車呼んだら、さすがにみんな起きてきちゃってね。たぶ
  ん興奮して眠れなかったかもしれないけど、うちのことはナッキーに任せてきた。
  今日は私、ずっとここにいるから」
 「ごめん…」
 「だから謝ることないって、気にすんな〜(笑)」

 舞美ちゃんがナースセンターにえりかちゃんのことを知らせにいくと、看護師さんが様
子を見に来た。えりかちゃんの脈をみたり、体温を測ったり、点滴を交換したりしたあと、
食欲があるか聞かれた。えりかちゃんが「少し」と答えると、朝食のおかゆを運んできて
くれた。ベッドの背もたれを起こして、舞美ちゃんがスプーンで口に運んでくれた。

 「自分で食べれますってば」
 「いいのいいの、1回やってみたかったんだから」
 「キミ、楽しんでるでしょ?」
 「まあね〜。『病院食』って、初めてじゃない?、うちの家族って、あんまり病院に縁
  がないものね」
 「まあ、一回ぐらい体験しといていいとは思うけどね」

 そんなにお腹はすいてないつもりだったけど、食べ始めると実はペコペコだったみたい
で、えりかちゃんはあっというまに全部食べてしまった。

 「ふはあ!、食った食ったぁ」
 「そんじゃあコレ、片付けてくるね」
 「舞美、ちょっと…」
 「ん?、どした?」
 「ちょっとこっち来て」
 「なんだなんだ?」
 「あのさ、ちょっとだけ…、泣かせて」

 舞美ちゃんは小さくうなずき、えりかちゃんを抱きしめた。

 「ゆうべ、咳がとまらなくなっちゃって、苦しくて、気が遠くなってっきて、すごい怖
  かった。自分でどうにもできなくって、ホントに死んじゃうんじゃないかなんて
  思った。舞美が来て、抱きしめてくれて、すごい安心したの。咳がとまらないまんま
  だったけど、なんだかすごい安心したの…」

 えりかちゃんは小さく肩をふるわせながら泣いていた。舞美ちゃんは何も言わないまま、
えりかちゃんの頭を優しく、何度もなでていた。

 「ありがとう…」

 食べ終わった食器をのせたトレイが、もとの場所に返されたのは、それから30分ほど
たってからだった。

●内科病棟−860号室(検診の時間)

 「肺炎ですが、症状はそれほど重くありません、しばらく点滴での治療になりますが、
  1週間ほどで退院できるでしょう」

 検診に来た塩田先生は、聴診器をたたみながら、そう話した。そして看護師さんに薬や
点滴の指示のようなことをひととおり言ってから、えりかちゃん、そして舞美ちゃんのほ
うに向き直って話しかけた。

 「昨日の雨に濡れたんですって?。すぐ家に帰らなかったのですか?」
 「ええ、ちょっと寄り道が長引いてしまって…」

 えりかちゃんはかなりバツの悪い感じで言葉を濁した。まさか先生を自宅まで追いかけ
ていた…、なんて言えるわけがないもんね。

 「あんまりムチャなことをしてはいけませんよ。入院中はいいとして、退院後もしばら
  くは用心するくらいの気持ちでいなくちゃ」
 「はい」

 診察しているときとはうってかわって、そうでないときに話す先生の言葉遣いは優しく、
なんだか家族に話しかけているような気分にさせてくれる。もしかしたら、それもまたひ
とつの「医者の技術」なのかもしれないけど、でもそんなふうには思えないくらい、先生
の笑顔は自然だった。

●内科病棟−860号室(面会時間)

 えりかちゃんが入院した病室は内科病棟の8階。そこの窓から見下ろす絶好の景色と眺
めは、家族が入れ替わり立ち代わり見舞いに訪れるのに好都合な理由にもなった。

 舞ちゃんはえりかちゃんが花屋のおばさんに借りた傘を返しにいき、代わりにお見舞い
の花束を預かってきた。

 千聖は大きい折り紙で鶴を3羽折って、それを糸でつなげたものを持ってきた。いわく
「千羽鶴」ならぬ「三羽鶴」だそうである。

 愛理は学校で得意のコルネットの演奏をMDに録音してきた。愛理のレパートリーのほ
とんどが収録されているそうで、これはまさに「愛理全曲集」だ。

 栞菜は雨にぬれてダメになってしまったえりかちゃんのファッション雑誌の代わりを買
ってきてくれた。

 私はというと、いつもみんなが食べているよりも、ちょっとだけグレードアップしたお
弁当を作って持っていった。

 舞美ちゃんは、理由がよくわからないんだけど、軟式のテニスボールを3個買ってきた。

 「みんなちょっと大げさすぎなくない?、あたしそんなに重病人じゃないんだよぉ?」
 「いーじゃんいーじゃん、こういうときだからこそ、みんなも結構楽しんでお見舞いに
  来てるんだからさ。えりかちゃんが重病だったら、こんなに楽しくお見舞いに来れな
  いじゃん!」
 「だ〜か〜ら〜、お見舞いなんか楽しまなくてもいいっつの(笑)」

●内科病棟−その後の数日間

 面会時間のあいだは、入れ替わり立ち代りにやってくる「見舞い客」ならぬ「見舞い家
族」のおかげで、我が家のメンバーは病院の関係者の間では、すっかり有名になってし
まった。

 うちの家族は、もともとみんな人なつっこいんだけど、千聖と舞ちゃんのその「得意技」
は、とにかく群を抜いている。老若男女、動植物の区別なく、誰とでも友達になってしま
うのだ。そんな二人は、ナースセンターを皮切りにして次々と「友達の輪」を広げていき、
内科病棟に入院している同じくらいの年代の子はもちろん、おじいちゃん、おばあちゃん
世代の人からも大人気の「アイドル」になってしまった。

 病院もすっかり自分の「ナワバリ」にしてしまった二人だから、いろいろな情報も入手
してくるようになる。師長さんは両手で同時に字が書けることとか、長年入院しているお
ばあちゃんが屋上でイチゴを栽培していることとか、塩田先生はカッコいいスーパーカー
に乗って通勤していることとか…。

 えりかちゃんも、斎藤さん、村田さん、大谷さんという看護師さんが特に仲の良い友達
になってくれて、仕事の合間をぬっては、えりかちゃんの部屋でおしゃべりをしていくよ
うになった。

 えりかちゃんの検診、というよりも普段の内科病棟の検診には、必ず塩田先生が来る。
先生はめったに休みをとることはなく、宿直明けの日でも、午前の検診まで済ませてから
帰宅するそうだ。これも、千聖と舞ちゃんの「チビッココンビ」が仕入れてきた情報。

●内科病棟−ナースセンター

 面会時間が終わって、家族も帰って、あとは消灯を待つばかりの病棟。看護師さんたち
も一日の状況を報告しあって、仕事場の整理や掃除を終わったところ。

 今日はえりかちゃんと仲の良い看護師さん、斎藤さん、村田さん、大谷さんの3人が
揃ってナースセンターに詰めている。そこへ珍しくえりかちゃんが病室を抜けてやって
きた。

 「あらあ、えりかちゃん。どうしたの?」
 「ベットの上だけだとあきるから。体もなまりすぎって感じだし」
 「それはしょうがないでしょう。立派な病人なんだから」
 「まあそうなんですけどね。…入ってもいいですか?」
 「大丈夫よ、今はもう私たち3人だけだから」

 入院患者とナース3人の、深夜の座談会、っていうか世間話。

 「どう?、そろそろホームシックになってきた?」
 「もうとっくにですよ。ウチはいっつも騒がしいから。病棟の静けさは別世界みたいで
  す。たまにはこういうのもいいと思ったけど、やっぱり1日で飽きちゃいました」
 「んー、贅沢な悩みね。私なんか家に帰ったほうが静かだし」
 「千聖ちゃん舞ちゃんが毎日来てくれてるじゃない?」
 「アヤツらは、私の見舞いを口実に『ナワバリ』を広げに来てるだけですから」
 「『ナワバリ』ね。たしかにそうだ(笑)。少なくとも内科病棟はあの『チビッココンビ』の
  支配下になっちゃったもんね」

 そんな話が延々と続き、テーマはこういうときのお約束「恋バナ」へと移っていく。芸
能人では誰が好きとか、どんなタイプが好きだとか、どんな恋をしてみたいとか…、もち
ろん「ナース3人」対「入院患者1人」という状況では、えりかちゃんばかりが集中攻撃
を受けるんだけどね。えりかちゃんは苦しまぎれに、なんとかして「ナース3人」の恋バ
ナを聞き出そうと反撃を試みるんだけど…。

 「うちの病院は、なぜか独身のドクター多いのよねえ」
 「やっぱり『モテ系』なら寺田先生が一番ね。ちょっとフケ顔だけど」
 「でも私は塩田先生のほうがタイプかな。なんたって真面目だし」
 「あら、私も誰かっていうと塩田先生がいいかな。なんて思ってたりして…」

 「でも先生は、結婚しているんでしょう?」

 えりかちゃんがそれとなく聞き返すと、「看護師トリオ」は、そろって静かになってし
まった。

 「え?、いんや…」
 「だって、左の薬指にリングはめてましたよね?」
 「先生ね…。去年奥さんを亡くしたの」
 「え…?」
 「奥さんは、乳がんの治療で、ずっとここに入院してたんだけどね…。ずっと抗がん剤
  治療を続けていたんだけど、転移が見つかって…、それから半月持たなかったかな。
  去年の春頃、亡くなったの」

 「…そうなんだ」

 塩田先生の話を聞いて、なんだか気持ちが沈んでしまったえりかちゃんは、そのまま言
葉少なく、病室に帰って行った。

 「あら、私たち、なんか良くない事話したかな…」
 「えりかちゃん、塩田先生のこと、気になってたのかねえ」
 「まあその気持ちも分からなくはない…けどね」
 「そういえば、先生の奥さんも『えりか』って名前だったわねぇ、たしか」

 ナースセンターに集う3人の「白衣の天使」の会話は、その後も続いたけど、えりかち
ゃんは病室に戻って、自分でもなんだかわけのわからない気持ちを抱えて、ベッドに横に
なった。

 「塩田先生が、私たち(患者)のために一生懸命に働いているのは、『医者』だから?」
 「あんなさびしい家に帰って、またすぐに出勤してきて、先生は楽しいの?」
 「あの、先生の優しい笑顔は、本心なの?、それとも…」

 いろいろな疑問が頭の中をよぎっては消え、そしてまた浮かんできて…。えりかちゃん
は、悩みとも心配ともとれない複雑な気持ちを抱えたまま、いつの間にか眠ってしまった。
えりかちゃん自身のなかで、塩田先生の存在がだんだんと大きくなってきていることには、
まだ気づかないまま。

●内科病棟−ふたたび860号室

 えりかちゃんが入院して5日が過ぎた。経過は順調で、見た目にはもう、入院患者には
見えない感じ。でも塩田先生からは「おとなしくしていなさい」と、割とキツく言い聞か
せられているそうだ。一日中パジャマで、しかも病院内で過ごさなければならないのが、
とっても窮屈そう。

 洗濯物の交換と、その朝作った「えりかちゃん用のお弁当」を届けるために、私と舞美
ちゃんは1日交代で、病院に寄ってから学校に行くというスケジュールをこなしている。
両親不在の我が家だから、学校の先生も特例として、私たちが授業の1時間目をパスする
のを許可してくれた。

 放課後になると、お見舞いに最初に駆けつけるのが千聖と舞ちゃん。舞ちゃんはいつも
花屋のおばさんから、「私のお見舞い代わりに」と渡してくれる花を1本もらってきては、
ベッドの横に置いた花瓶にさしてくれる。

 それから、愛理、栞菜、私と、順番に家族がやってくると、病室内は大勢になってしま
うから、千聖と舞ちゃんは押し出されるようにして家に帰る…、のではなく、病院内の冒
険、というか「ナワバリ」のパトロールにでかける。今ではこれが日課になってしまった
ようで、二人が病院の人たちに迷惑をかけていないかと、えりかちゃんと舞美ちゃんはち
ょっと心配している。

 夕方も遅くなって、最後の「見舞い家族」である舞美ちゃんが来ると、私はバトンタッ
チして家に帰り、妹たちと夕食の準備をする。

 薄暗くなった街の景色を見下ろしながら、病室で舞美ちゃんとえりかちゃんが話してい
ると、看護師さんが来て、二人は会議室のようなところに案内された。塩田先生が「話が
ある」とのことだ。

●内科病棟−面談室

 「なになに?、呼び出し?」
 「えりか、何かした?」
 「いんや、もしかして『あの二人』じゃない?」
 「うそ?!、それちょっと困る…」

 二人は妙にイヤ〜な予感がしていた。ドアをノックして塩田先生が入ってきたとき、二
人とも思わず肩が硬直してしまった。先生はニコニコ顔で、テーブルを挟んで二人の向か
い側の椅子に座った。

 「(うわー、この笑顔はなんだろう?)」

 あんまりいい話のネタが思い浮かばないだけに、先生の笑顔がかえって不気味に感じら
れるえりかちゃんと舞美ちゃんなのであった。先生はカルテを広げて、なにかメモを書き
込みながら話し始めた。

 「お二人に伝えたいことが、二つあります。まずひとつは、えりかちゃん」
 「(なに?アタシ?!、アタシなんかしたっけ?)」

 えりかちゃんはパッと顔を上げて先生のほうを向き、それから舞美ちゃんと目を合わせ
た。舞美ちゃんもほとんど同じタイミングで、まったく同じ動作をした。先生はそんな二
人の反応を見て、わざとじらすようにして、ちょっとの間を置き、次の言葉を続けた。

 「…あさってに退院が決定しました。おめでとう!」
 「「あ…、え?!、あ、ありがとうございます!」」

 「およそ一週間」と聞いてはいたものの、そのときに限って二人とも予想外、の嬉しい
知らせだった。それだけに、先生の顔と、お互いの顔とを交互に見ながらの、たどたどし
い返事になってしまった。塩田先生は、そんな二人の、鏡に映したような同時のリアクシ
ョンが面白くて、思わず笑ってしまった。

 「えりかちゃんが、きちんと私たちの指示に従ってくれたので、経過が順調に回復した
  んですよ。よく頑張ってくれたと思います」
 「ありがとうございます」

 「それと、毎日ご家族の皆さんが勤勉にお見舞いに来てくださったこと。これはえりか
  ちゃん自身にとっても励みになっただろうけど、私たちや、他の入院患者さんたちに
  とっても、とても良い影響を及ぼしてくれたと思っています」
 「ありがとうございます」
 「いや、こちらこそ、ありがとうと言いたいですよ」

 先生はカルテを閉じると、両手をテーブルの上において、改めて二人に向き直るように
して、また話し始める。

 「そして、もうひとつお伝えしたいことなんですが、これはお二人の妹さん、千聖ちゃ
  んと舞ちゃんについてなんです…」
 「(うわ…、やっぱりなんかやったんだアイツら…)」
 「(ってか本題はコッチかぁ?!)」

 つい今までの嬉しそうな反応から一転して、二人ともガクンと肩を落とし、悲壮感漂う
表情で先生を見つめた。これまた二人のリアクションが鏡写しみたいに同時だったので、
先生は苦笑しながら言葉を続けた。

 「実は今日、内科病棟から外科病棟に移った、若い女性の患者さんがいらっしゃるんで
  す。彼女は乳がんを患っていて、抗がん剤での治療を続けていました。しかし、乳房
  の切除手術を受けなければ、完治の見込みがないばかりか、転移する危険性もあった。
  でも、やはり女性にとって『乳房を切るということ』には、大きな抵抗があります。
  彼女もその手術を受けることを、決断できずにいました」

 急に話の内容が読めなくなって、えりかちゃんと舞美ちゃんはきょとんとして、先生を
見上げた。

 「でも、休憩室で知り合った千聖ちゃんと舞ちゃんに励まされてね。彼女は手術を受け
  ることを決断したんですよ。『チビッココンビ』が、彼女に、生きることの大切さを
  教えてくれたんです。もちろん、あの二人にそんな意識はなかったでしょうけどね。
  二人が自然に、ありのままに『生きていることの楽しさや喜び』を実感させてくれた
  からこそ、彼女の抱えていた悩みや心配が解けていったんだと思います」

 「二人の活躍、というか、実際はただ遊んでいるだけだったんでしょうけど、それでひ
  とりの患者さんを救うことができた。もしかしたら、彼女たちはこの数日間でもっと
  多くの患者さんたちを救っているのかもしれない。なにしろここは二人の『ナワバリ』
  ですからね」

 えりかちゃんと舞美ちゃんは、あいた口が塞がらず、どう反応していいのかわからない
まま、ただボーっと先生の顔を見つめていた。

 「改めて、お二人のお姉さんであるあなたがたに、感謝したいな。とね」

 先生は深々とおじぎをした。

 「ありがとうございます」
 「あ、いえ、そんな、こちらこそありがとうございます。じゃなくてどういたしまして
  …じゃなくてやっぱり、ありがとうございます」

 二人は多少の混乱を交えつつ恐縮するばかりだった。そして思い返したように、舞美ち
ゃんが恐る恐るたずねる。

 「てっきり二人が、皆さんにご迷惑をおかけしていたのではないかと…」
 「とんでもない。まあ多少のトラブルはあったみたいですが、にも増して、彼女たちは
  病院内にプラスの、ポジティブな雰囲気を撒き散らしてくれてましたよ」
 「やっぱりトラブル起こしてたんだ、アイツら…」
 「…まあそこらへんは気にしないであげてください。私たちはあの二人に感謝したい気
  持ちのほうが大きいのですから」

 「ありがとうございます」
 「こちらこそ、ありがとうございます」

 この日の夜、舞美ちゃんは、家族にとっておきの「おみやげ話」をふたつ、持ち帰って
きた。

●総合病院−玄関前

 それから2日が過ぎて、えりかちゃんの退院の日。

 「ちょっとしたウエイトトレーニングだね」
 「別にあたしにも持たせたっていいじゃん」
 「だいじょぶだいじょぶ。これくらい全然平気(笑)」
 「二人とも、もうちょっと近くによって歩いて〜」
 「ってかナッキーまで、はしゃぎすぎ〜!」

 背中と両手に荷物を持った舞美ちゃんと、退院祝いの花束を持ったえりかちゃんが玄関
から出てくる。私はその様子をドキュメンタリータッチに記録するべく、ビデオカメラを
構えて、二人の前に回ったり、後ろから追いかけたりしていた。

 お見送りには塩田先生と斎藤さん、大谷さんが出てきてくれた。村田さんは今日はお休
みだそうだ。

 「退院、おめでとう」
 「先生、みなさん、ほんとにありがとうございました。お世話になりました」
 「んー、オチビちゃんたちとも、もう会えないとなると、さびしいねえ」
 「なに?、あたしじゃなくて?!」
 「んー、もちろんえりかちゃんとだって、…そうだよ(笑)」
 「その微妙な『間』はなんなのよー?!」
 「うそうそ、もちろんえりかちゃんと会えないのも、寂しいっさあ」
 「まあ、そうそう病気にもなってられないからね。仕方ない」
 「大谷さんがお休みの時には、ウチに遊びにくればいいじゃない。いつだって歓迎しま
  すわよ!」
 「うわあ、そういってくれると嬉しい!、ってか助かる」
 「なにそれ〜!」

 タクシーが到着すると、舞美ちゃんはトランクに荷物をのせ、えりかちゃんは後部座席
に乗り込んだ。運転手のおじさんが降りてきて、舞美ちゃんの手伝いをしようしたけど、
おじさんは結局トランクを閉めただけだった。

 私は急いで助手席に座り、後ろを振り向いてえりかちゃんと舞美ちゃんをファインダー
越しに捕らえた。カメラマンはなにかと忙しい。塩田先生が、えりかちゃんの座っている
側にまわり、あけたドアの窓越しに小さなメモを渡した。

 「来週末、私が非番なので、よかったら退院祝いを兼ねてドライブでも行きませんか?。
  千聖ちゃん、舞ちゃんにもお願いされていることだし。都合がよければ、ここに連絡
  ください」
 「あ…、はい…、わかりました」

 タクシーがウチに向かって出発し、病院の入口を出ようとすると、看護師さんたちがず
っと手を振ってくれているのが見えた。えりかちゃんは、ちらっとそっちを見たけど、あ
とは顔を真っ赤にしながら、うつむいたままだった。すると舞美ちゃんが満面の笑顔で話
しかける。

 「えりか、良かったじゃなあい!。あのカッコいいスポーツカーに乗せてもらえるんだ
  よ。うらやましいなあ」

 …舞美ちゃん、ツッコミどころが違うよ。

●家の中

 えりかちゃんが無事に帰ってきたのはいいのだけど、家の中はキッチンを中心にして、
結構なちらかりようだった。

 「なにこれえ〜?!」
 「結構みんな忙しくってね。やっぱしえりがいないと大変だわ」

 舞美ちゃんが他人事のように言うので、えりかちゃんはガックリと肩を落とした。その
後、えりかちゃんの大号令が発動し、家族全員で季節はずれの大掃除が始まった。

 大掃除も夕方には終わり、みんなそろって夕食の時間を迎えた。えりかちゃんの退院の
お祝いパーティーも兼ねて…ということで、舞美ちゃんがケーキを買ってきてくれた。

 「なんでロウソク立ってんの?」
 「まあ、いいじゃん!、ナリで行きましょ。ナリで!」
 「ナリって…」
 「えりかちゃん、早いとこ吹き消して〜」
 「はいはい、それじゃあ…(フゥ〜ッ!)」

 「「「「「「退院おめでとー!!」」」」」」

 こうして、久々にみんな揃って夕食を食べ、おしゃべりをして、いつもと変わらない夜
になり、いつもと変わらない「おやすみ」を言った。

 塩田先生が病院をやめて、九州の大学病院に移ることが決まったのは、翌日のことだっ
た。大谷さんからのメールで、えりかちゃんがそれを知ったのは、さらにその翌日のこと
だった。

●家の前

 「えりかちゃ〜ん!、先生が来たよ〜!」
 「スーパーカー!」
 「フェラーリだあっ!!」

 一応我が家は「閑静な住宅街」の中にあるから、先生の車のエンジンの大きな音は目立
つ目立つ。千聖と舞ちゃんはそれを聞いてすぐ飛び出していったけど、えりかちゃんはま
だ部屋から出てこない。きっとまだ鏡の前なんだろうな。

 「ちょっとおー、栞菜いるー?」

 ことファッションセンスに関しては、家族でも絶対の知識量と経験を持つえりかちゃん。
だけど、なんとなく不安なんだろうね。自称「我が家の二番手」の栞菜に、臨時のファッ
ションアドバイザーとしてお呼びがかかった。

 「このリップ、ちょっと派手かなあ?」
 「えりかちゃん、勝負かかってんねえ〜」
 「う、うるさい。どうなのよ?!」
 「えりかちゃん助手席でしょう?、距離が近いから、も少し薄い色でいいんじゃない?」
 「そおかぁ、そうだよねえ…、じゃこっちにしよ!」

 えりかちゃんは再び鏡の前に座り、急いでリップをふき取り、明るめのリップに塗りな
おした。「真剣作業」が終わるのを見計らって、栞菜はえりかちゃんの頬をつまんで…。

 「はい、笑顔の練習!イッチニ〜、イッチニ〜!」
 「ほら(こら)、ほっへはひはふは〜(ほっぺた引っ張るな〜)」
 「はい、『笑顔ピ〜チ〜ピ〜チ〜』でしょ?」
 「だからって人の顔で遊ぶな〜!」

●車の中

 先生の「青いスポーツカー」の後部座席に、千聖と舞ちゃんが乗り込み、助手席にはえ
りかちゃんが座った。

 「お、起きれない〜!」
 「前が見れない〜!」
 「ちょっと、クッションもってくる〜!」
 「出して出して〜!」
 「あ〜うるさい!、早く行ってきなさいよ」
 「えりかちゃんが遅かったんじゃん〜」
 「わ〜かったわ〜かった」

 後部座席のシートは深く、背もたれも寝いていて、体の小さい二人ではまったく前を見
ることができなくなってしまうのであった。千聖が居間のソファからクッションをふたつ
持ってきて、二人はそれを敷いて座った。即席の「チャイルドシート」だ。先生はそれを
見て苦笑しながら言った。

 「江ノ島においしいカレー屋さんがあるんだ、そこに食べに行きましょう」
 「わーい!、江ノ島だー!!」
 「海だー!!」
 「カレーだー!!」
 「フェラーリだー!!」
 「じゃあ、行きますよ。ちょっとうるさいけど、勘弁してね」

 そういって先生がキーをまわすと、車全体が大きく振動して、エンジンがかかった、そ
の大きな音に最初はビックリした二人だけど、すぐにその音に負けないくらいの大声で騒
ぎ始めた。それこそぎゃあぎゃあと…。

 「ちょっと、あんたたちうるさすぎ!」
 「だってエンジンがうるさいんだもん」
 「負けてられないっしょ!」
 「何を勝負してんのよっ!」
 「いやはは、楽しいなあ」
 「すいません…」

 「「いってきまあーす!!」」

 完全に「チビッココンビ」のペースで、大騒ぎのうちに出発。えりかちゃんは先が思い
やられるまま、先生に平謝りするしかなかった。さてさて、この先どうなることやら…。

 車はいくつかの有料道路と国道を通り、鎌倉の神社の前を抜けて、海岸沿いの道にたど
りついた。途中、砂浜の見える駐車場に車を停めて、外の空気を吸うため、散歩すること
にした。

●砂浜の見える駐車場

 3月の海は、まだ風が冷たいけど、千聖と舞ちゃんは車を降りるやいなや、靴と靴下を
脱ぎ捨てて走り出した。

 「あいつら、やる気ありすぎ」
 「いやはは、ホントかわいいなあ、あの二人は」

 すっかり野生の血を発揮している二人を、あきれた顔で見送るえりかちゃん。その横で、
塩田先生は苦笑しながらゆっくりと歩き出した。千聖と舞ちゃんは、子犬がじゃれあうか
のように、波打ち際で走り回っていた。

 「久しぶりだなあ、ここ」
 「前にも来たことあるんですか?」
 「よく来ましたねえ。奥さんと一緒に…」
 「亡くなった奥さん…ですか」

 「そうです。車が好きで…、海も好きでね。私が休みの日は、必ずドライブして海に
  出かけてました。ここもそのひとつです。『チビッココンビ』にお願いされなければ、
  ここに来るなんて、思いつかなかったなあ」
 「思い出しますか?」
 「そりゃあもちろん…。でも、いい思い出ばかりです」

●砂浜

 波打ち際からちょっと離れたところを、塩田先生とえりかちゃんは並んで歩きながら、
遠くで手を振る「チビッココンビ」を見ていた。先生はときどき、落ちている貝殻をひと
つふたつ、拾ったり、比べてみたりしていた。

 「お、コレきれいだ。はい、プレゼント」
 「ホントだ、きれい」

 手渡されたのは、波に洗われてすべすべした、濃いピンク色の貝殻だった、それはちょ
うど桜の花びらのような形をしていた。なにげなく渡された「プレゼント」だけど、えり
かちゃんはそれをそっとハンカチに包んで、ポケットにしまった。

 「先生のこと、大谷さんから聞きました。九州に行くって…」
 「いやはは、ちょっと『医者修行』に行こうかな、なんて思ってね」
 「今の病院には、いられないんですか?、奥さんのこと…」
 「いや、たしかに奥さんのことは、あの病院にいる限り、思い出してしまうこともある
  けど…。今回のことは、そんなにネガティブな感情ではないよ。」

 先生はわざとらしく腕を組み、しばらく言葉を考えてから、ゆっくりと話し始めた。

 「えりかちゃんが退院する数日前に、乳がんの患者さんのことを話したでしょ?」
 「はい」
 「その人ね、ちょうどえりかちゃんが退院した日に手術をして、成功したんだ」
 「わあ、そうなんだ」
 「人間って不思議でね。『病は気から』っていうとおりに、病気に『負けない!』って
  いう気持ちが、本当によく作用するんだよ。その患者さんも、手術に対して、いや、
  ガンと闘うことに対して前向きになってくれたからこそ、うまくいったんだと思う」

 「そしてね、そういう気持ちを引き出してくれたあの二人には、ホント感謝している。
  それと同時に、自分はまだまだ、医者として未熟だな…って、痛感させられてね、
  ハハハ!」
 「そんな…」

 「ボクはね、医者として患者さんと接することはできても、友人として接することは、
  ずっと難しいと感じていたんだ。でも、自分が医者だとか、患者だとか、そんな立場
  とは全然関係なく、『生きる』ってことは、みんなに共通する大切なことなんだ…
  って、考えてみれば当たり前のことを、あの二人に教えてもらった気がしてね」

 先生は歩きながら、えりかちゃんの方に向き直って話を続けた。

 「えりかちゃんにも教えてもらったことがある。最初、ご両親がいない家族だと聞いて、
  すごく心配したんだよ。『この子ひとりで病気と闘うなんて、大丈夫かな』ってね。
  でも、えりかちゃんは全然弱音をはかなかったし、ボクらのいうこともきちんと聞い
  てくれた『りっぱな患者さん』だった。そして姉妹みんなが助け合って、みんなが笑
  って過ごしている様子も見ることができた。普通の家族よりも、ずっとすばらしい
  『りっぱな家族』がいるんだってことを、教えてくれた」
 「そんな、すばらしい…なんて」

 えりかちゃんはどう答えていいんだか分からず、なんとなくあいまいに、笑って恐縮す
るしかなかった。そうして、またしばらく歩いてから、先生が話し始めた。

 「…去年、彼女、えーと、自分の奥さんがガンで亡くなっちゃったとき、やっぱりかな
  り落ち込んでね…。自分は医者なのに、一番大切な人を守れなかった…っていうのは、
  ショックが大きかった」

 「医者を辞めようか…とも思った。でもボクはものすごい不器用な人間でね。医者以外
  でなにかできそうな自信もなく、ここまでズルズルと、惰性で仕事をしてきたんだ。
  さすがに『死のう』とまでは思わなかったけど、かといって、生きる理由も見つけら
  れずにいた。でも、『大正のえりかちゃん』に生きる意味を教えてもらってね」
 「『大正のえりかちゃん』?」

 「ボクが勝手にそう呼んでるんだけどね。同姓同名のおばあさんがいたでしょ?」
 「あ、あのおばあちゃん?」

 「そう、もう長い間、通院で治療を続けているんだけどね。『大正のえりかちゃん』
  はすごい人で、戦争でご両親を亡くして以来、ずっとひとりで生きてきたんだ。えり
  かちゃん、『モガ』って知ってる?」
 「いえ…、なんですか?」

 「『モガ』っていうのは、『モダンガール』の略でね、男性だと『モダンボーイ』を略
  して『モボ』って呼ばれてた。大正の当時、西洋から入ってくる流行の最先端を取り
  入れることに一生懸命だった世代の若者たちを、そう呼んでいたんだね」

 「『大正のえりかちゃん』も、その『モガ』と呼ばれた世代の人でね。もう90歳近い
  というのに、お茶目で、どんなものごとに対しても、前向きな見方を持っている人な
  んだ。病気のことを告知したときにも『病気には負けないから』って笑ってたくらい」

 「お子さんやお孫さんもいるけど、ご主人を亡くしてからは、またひとりで生活してい
  るんだって。ボクはなぜ、そんなに強く、前向きに生きられるのか、不思議だったか
  ら、思い切って聞いてみたんだ。そうしたらあっさりと答えてくれた。えりかちゃん、
  人はなんのために生きているんだと思う?」

 「なんだろう?、私にはまだ、わからないんじゃないかなあ」
 「おばあさんはね、ひとこと『名前のため』って答えたんだ」
 「名前のため?」

 「そう、名前のため。人の名前っていうのは、その人がいなくなっても、つまり死んで
  からも、ずっとその人のためだけに残るもの。その名前が『いい名前』になるか『悪
  い名前』になるかは、その人の生き方次第で決まる。だから、自分で納得の行く『名
  前』になるように生きるんだって…。難しい話になっちゃったかな?」

 「ちょっと難しいけど、…なんとなく分かるような気がします」

 「その話を聞いてね、考えてみたんだ。ぼくには『塩田良平』という名前がある。『塩
  田良平』は果たしてどんな人だろうか、ただの医者?、まあそれでもいいかもしれな
  い。奥さんを愛していた人?、それはどうだろうか…。たしかに奥さんが生きていた
  当時は愛していた。でも、奥さんを亡くして、その悲しみに負けてしまっては、ただ
  単に『塩田良平』はよわっちいヤツの名前になってしまうかもしれない。そうやって
  自分のことを、名前を通して考えると、『生きる』ってことの意味が違って見えてき
  たんだ」

  「だから今回、九州に行くって決めたのも、とりあえず『りっぱな医者』になろうと
  思ってね。…別に偉くなろうとか、そういうのじゃないよ。えりかちゃんや、乳がん
  の手術をした患者さんのように、病気と闘う気持ちのある『りっぱな患者さん』に、
  きちんと応えることのできる『りっぱな医者』に…ね。それが、今自分にできること
  のひとつだと思ってね」

 「名前って不思議でね。まったく同じ名前の人がいたとしても、それぞれが違う人なん
  だってことを主張しているんだ。例えば…」

 そういって先生はえりかちゃんを指差した。

 「私?、私は…『平成のえりか』?」
 「そう!、『平成の矢島えりか』!。偶然ってすごいよね。実はボクの奥さんも、名前
  は『えりか』…。しかも旧姓が『矢島』だったんだ。だから『昭和の矢島えりか』な
  んだよ」
 「ええっ!、うそ?!」

 「ホントに、どんな運命のいたずらだろうって驚いたよ。ボクは3人の『矢島えりか』
  に出会ったんだ。『昭和の矢島えりか』と結婚し、『大正の矢島えりか』に教えられ、
  今また『平成の矢島えりかちゃん』に出会った。それぞれの『えりかちゃん』は、ボ
  クに、生きる楽しさ、生きる意味、そして生きる大切さを教えてくれたんだ。だから
  今は、生きるってことが楽しくてしょうがない。ぼくは多分、幸せなんだろう」

 先生は多少オーバーなアクションで両手を広げて、海に向かってなにか叫ぶようなポー
ズをしてみせた。えりかちゃんは、なんだかよく分からないんだけど、涙目になっている
自分に気がついていた。

 「わたし…」

 言葉を続けようとしたけど、出てこなかった。

 「あれ?、あの二人、どこ行った…?」

●ふたたび駐車場

 砂浜で遊んでいたはずの二人の姿が見えなくなってしまったので、えりかちゃんと先生
は駐車場に引き返して待つことにした。車のところまで戻ってくると、なんと二人は先回
りしてビデオカメラを構えていた。

 「センセーセンセー!、映画のワンシーンみたいなのが撮れたよ!」
 「ほらほら!、砂浜を歩くカップル!!」
 「おぉ!、こりゃ撮られちゃったな〜」
 「あんたら、いつの間にカメラなんか持ってきてんのよー!」

 その後、塩田先生オススメのカレー屋さんで食事をし、満腹になった「チビッココンビ」
は、後ろの座席で夢の中を冒険して、家にたどり着いた。

●空港

 2週間後、九州の大学病院に移るため、飛行機に乗ろうとしていた先生を見送りに、舞
美ちゃんとえりかちゃんと私は空港に来ていた。学校は春休みに入っていて、千聖や舞ち
ゃんも来たいと言っていたけど、「おみやげをもって帰るから」と言い聞かせて、お留守
番させた。ただでさえ不慣れな場所に、トラブルメーカーを連れて行くのは、リスクが大
きすぎるからだ。

 家族から預かってきたいろいろな『おみやげ』を先生に渡すと、先生はそれを丁寧にス
ーツケースにしまった。たくさんお世話になったお礼を言ったり、先生の新しい住所を聞
いたり、九州の病院のことを話していたりするうちに、出発の時間が近づいてきて、搭乗
口のゲートの前まで来た。

 「えり、最後にひとこと、言ってきたら?」
 「うぅ、プ…、プレッシャー…」
 「負けるな。えりかちゃん!頑張って!!」
 「私たちは聞いてないからさ!!」

 そういって舞美ちゃんと私は、両方の耳を手でふさぎ、目配せをした。えりかちゃんは
小さくうなづくと、先生のそばに走りよった。

 「先生!、あたし、病院は嫌いだけど!、先生は好きです!」
 「え?」
 「先生が好きです!」

 えりかちゃんはそういって抱きついたけど、先生はあっけにとられて、スーツケースの
取っ手を持ったまま棒立ちになって固まってしまった。でも、ほんのちょっとの時間で気
を取り直したように、えりかちゃんの肩を持って向き合った。

 「ありがとう。なんか…、どう答えたらいいのか分からないや。ボクは本当に不器用で
  ね。今はたぶん、えりかちゃんの気持ちに応えてあげることができないんだと思う」

 先生はやさしい笑顔で、えりかちゃんを見つめた。えりかちゃんは、自分でも笑ってい
るのか、泣いているのか分からないような、グジャグジャな表情しかできなかった。

 「でも、『出会い』をくれた君には本当に感謝しているよ。向こうに着いて、そして落
  ち着いたら手紙を書く。もちろんメールだってかまわない。いつでも話し相手になれ
  るし、逆になってほしいかな。距離は離れているけど、気持ちは近いままでいたいね」

 「わたし、どうしたら…」

 「えりかちゃんには、ぜひとも『平成のえりかちゃん』でいてほしいな。その名前はま
  だまだ未完成なんだから…。だから、すばらしい名前にしてほしい」

 先生はそっとえりかちゃんの両手を握り、その手の甲にキスした。そうして、どこか外
国の紳士を気取ったように、軽く会釈をしてから、再びスーツケースの取っ手を持って、
歩き出した。

 「じゃあ、明日にでも、メールちょうだい!」

 先生は振りかえって、大きく手を振った。えりかちゃんもそれに応えて、手を振った。
私たちもえりかちゃんの後ろで、手を振った。ゲートの向こうに先生の姿が消えると、え
りかちゃんは深呼吸をしてから、私たちのほうに向き直った。

 「ねえねえ、ちょっと肩貸してくれる?」
 「なになに?、どしたの?」
 「あのさ、ちょっとだけ…、泣かせて」
 「うん、いいよ」

 3人で肩を組んで、円陣のように輪になって、その中でえりかちゃんは、小さく肩を震
わせながら泣いた。私たちも、なんだかもらい泣きしちゃって、立ったままその場を動け
なかった。他の人から見たら、「何やってんだろう?」って思われただろうな。

 しばらくそうやって泣いていたけど、えりかちゃんが私のトートバッグに入っているビ
デオカメラの存在に気がついて…

 「ちょっと!、あんたらねえ、いくら耳ふさいでたって、しっかりビデオにとってん
  じゃん!!」
 「だって、千聖たちにおみやげもって帰るって言った手前…」
 「『おみやげ』って、あのねえ…」

 そのあとは屋上に上がって、先生の乗った飛行機が飛び立つのを見送った。先生から見
えていたかどうかは分からないけど、私たち3人は思いっきり笑顔で、思いっきり力いっ
ぱい、手を振った。

おしまい

●エンドロール

             「負けないで」

       −− テーマソング・イメージ −−

        わっきゃない(Z)  ℃-ute
                   (作詞:つんく/作曲:つんく)

        −− キャスト・イメージ −−

          矢島 舞美   矢島 舞美
          矢島えりか  梅田えりか
          矢島 早貴   中島 早貴
          矢島 栞菜   有原 栞菜
          矢島 愛理   鈴木 愛理
          矢島 千聖   岡井 千聖
          矢島 舞.   萩原 舞

         看護師・斎藤  斎藤 瞳
         看護師・村田  村田めぐみ
         看護師・大谷  大谷 雅恵

       花屋のおばさん   長澤 素子

           塩田良平  内田 健介

          矢島えりか  保田 圭
        (大正のえりか)

●後日談

 舞ちゃんが、えりかちゃんの部屋のドアをノックした。

 「どうぞー。あれ、舞ちゃん、どした?」
 「ねーねー、えりかちゃん。今度さあ、じゃなくて夏休みにさあ」
 「夏休み?、うん」
 「『りょーへーちゃん』とこに、遊びに行かない?」
 「『りょーへーちゃん』?、誰?」
 「まいのメル友。『りょーへーちゃん』」
 「し、知らないんですけど…」
 「何いってんのぉ?、塩田先生だよっ!」
 「えっ?!。舞ちゃん、いつの間に塩田先生と『メル友』になってんの?!」
 「えりかちゃんが入院した次の日からだよ?」
 「うそっ?!、そんな前?、ってか、舞ちゃん携帯持ってんの?!」
 「ナッキーの借りてメールしてんの!」
 「うそ…うそっ?!、そんなのあり?」
 「うちの家族、みんな『りょーへーちゃん』とメル友だよ?。えりかちゃん、知らなか
  ったの?」
 「し、知らなかった…、っていうか、それってすんごい迷惑かけてない?」
 「センセーねえ、お仕事終わったあとに、ちゃんとみんなに返信してくれるんだよ」
 「あー、ホントに『不器用な人』だぁ…」
 「でさ!、でさ!、『みんなで遊びにおいで』ってメールくれたんだよ?」
 「そんな…。みんなの予定とか合わないかもしれないし、だいいち旅費がすごくない?。
  まあどっちにしろ、あとでみんなで相談してみよう…」
 「わーい!」
 「こらー、まだ決まってないっつうの!」

 ドアを開けっ放しで出て行ってしまった舞ちゃんにあきれながら、えりかちゃんは机に
向き直り、そっと引き出しを開けた。そこには、ハンカチに包まれたピンク色の貝殻が、
ほんの少しだけ顔を出していた。
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